葛西純自伝『狂猿』第4回 大日本プロレス入団、母と交わした「5年」の約束

葛西純自伝『狂猿』第4回

デスマッチファイター葛西純 自伝『狂猿』

 葛西純は、プロレスラーのなかでも、ごく一部の選手しか足を踏み入れないデスマッチの世界で「カリスマ」と呼ばれている選手だ。20年以上のキャリアの中で、さまざまな形式のデスマッチを行い、数々の伝説を打ち立ててきた。その激闘の歴史は、観客の脳裏と「マット界で最も傷だらけ」といわれる背中に刻まれている。クレイジーモンキー【狂猿】の異名を持つ男はなぜ、自らの体に傷を刻み込みながら、闘い続けるのか。そのすべてが葛西純本人の口から語られる、衝撃的自伝ストーリー。

第1回:デスマッチファイター葛西純が明かす、少年時代に見たプロレスの衝撃
第2回:勉強も運動もできない、不良でさえもなかった”その他大勢”の少年時代
第3回:葛西純「狂猿」第3回 格闘家を目指して上京、ガードマンとして働き始めるが……

後楽園ホールで行われた入団テスト

 上京して、プロレスラーか格闘家になるという夢を忘れかけてしまった俺っちは、風俗通いをしたあげく、HIVに感染したんじゃないかと思い詰めていた。いてもたってもいられなくなって調べたら、新宿の南口に無料でHIV検査を受けられる機関があるというのを突き止めた。

 さっそく検査を受けに行って、血液を採取して、さあ、どっちなんだと。どんな結果が出ても受け入れる、と覚悟してたら「検査の結果は10日後です」といわれた。すぐ結果がわかると思ってたからガクンときたけど、そこからの10日間が本当に地獄だった。これはやっぱり感染してるんじゃないか。だったら、俺っちの人生はなんだったのか。自問自答したあげく、じゃあ、これで陰性だったら、本当に自分のやりたかったことをやろう。今やっているガードマンの仕事を辞めて、プロレスの入門テストを受けようと決意した。

 10日経って、すぐに聞きに行ったら結果は陰性だった。ホっとすると同時に、気持ちも固まってたんで、それから3日後に辞表を出して会社を辞めた。退職金がいくらかもらえたんで、それをもとに一度、体を作り直そうと思って、帯広に帰ることにした。家族にもプロレスラーになるため体を鍛えると宣言して、実家の近くのジムを探すと、ちょっとした器具の揃った施設みたいなところがあったんで、そこに通ってウェイト・トレーニングをはじめた。

 その施設には、趣味で体を鍛えてるオジサンたちがいたんだけど、最初は俺っちのことを「いきなりウチらのテリトリーに来てガンガン鍛えてるコイツはなんだ?」っていう目で見てくるわけだよ。そこで俺っちが「プロレスラーを志して鍛えてるんです!」って近寄っていったら、「そうか! だったら今度焼肉でも食わせてやるよ!」って応援してくれるようになってね。それからそこのオジサンたちとよくメシを食いにいくようになった。

 田舎とはいえ、他にも誘惑はいろいろあって、中学・高校時代の同級生と久しぶりに再会して飲み歩いたり、あらたな地元の仲間が出来たり……。そんな生活がそれなりに居心地が良くて、鍛えたり、飲んだりしてるうちにダラダラと1年くらい過ごしてしまった。そうしたらウチの親父から「お前はプロレスラーになりたくてガードマンの仕事辞めて帰ってきたんだろ。ただ飲み歩いてるだけじゃねぇか!」って怒られて、ハっと目が覚めたんだよ。

 これは行動に移さないといかん。ようやく、どこのプロレス団体に行けばいいかを真剣に考えはじめた。ウチの親父は一緒にプロレスを見てると、「今のキックは当たってねえよ」とか「そんなに痛くないだろ」とヤジるような、嫌なタイプのファンだったんだよ。それなら俺っちは、親父にそういうことを言わせないような、痛みの伝わるプロレスをやりたいと思った。

 そこで俺っちが出した結論は『バトラーツ』だった。当時、数あるプロレス団体のなかでも「格闘探偵団バトラーツ」は、気合いの入ったバチバチスタイルで名を馳せていたからね。さっそく履歴書を書いて、バトラーツに送ってみた。なぜかそのときに「作文も書いて送れ」みたいな条件があって、「自分がプロレスラーになったら」というテーマの文章を長々と書いたんだけど、結果は不合格。


 これはまずい。やっぱり、俺っちみたいな体格の人間がプロレスラーになるなら、普通のことをしてちゃダメだ。団体の人間から「こいつ普通じゃねえな」と思われるようなことをしなきゃいかんと思ったんだよ。履歴書を書いて送っても無駄、とにかく行動しかない、と思って、底を尽きかけてた退職金の残りで往復の航空券チケットを買って、とりあえず東京に行こうと。何のアテもなかったけど、どこかの団体の道場に押しかけてでも入門テストを受けようと思ったんだよ。

 東京についたら、とりあえず歌舞伎町にあるカプセルホテルに泊まることにした。でも、カプセルホテルは昼間追い出されるから、そのまま新宿を彷徨いつつ、西口の新宿中央公園にたどり着いた。ベンチで横になりながら週プロを読んでたら、明日、大日本プロレスが後楽園で試合をやるということがわかった。大日本プロレスと言えばデスマッチ。バトラーツとはスタイルが違うけど、痛みの伝わるプロレスということなら、あれはどう見ても痛い。親父を黙らせるにはうってつけだなと思って、近くの公衆電話に行って、週プロに載ってた大日本プロレスの事務所の番号に電話をかけた。

 「はい、大日本プロレスです」と、いま思えば、そのとき電話に出たのは登坂栄児だと思うんだけど、その電話口の人に向かって「入門テストを受けたくて北海道から上京してきました。明日、後楽園ホールの大会前に入門テストを受けさせてくれないでしょうか」ってストレートにお願いしたんだよ。いま思えば、かなりハタ迷惑な話なんだけど、不思議と「いいですよ。じゃあ明日の16時くらいにリングの設営が終わるので、そのくらいに後楽園ホールに来てください」って言われて、素直に翌日に入門テストを受けに行った。

 いまでも思い出すよ。まだお客さんが入ってない後楽園ホールに、リングが組み上がっててね。試験官は当時の大日本で一番下っ端だった、越後雪之丞という選手。テストのメニューはスクワット500回、ジャンピングスクワット50回5セット、それにプッシュアップ、腹筋、背筋、あとブリッジ3分だったかな? ブリッジターンもやったかもしれない。予想以上に正統派な、バリバリの入門テストだったけど、ヘトヘトになりながらも全部こなすことができた。自分の中ではテストをクリアしたからこれは合格だろうと思ったら、奥から山川竜司さんが出てきて「お前は年もいってるし、背も小さいから無理だと思うけどな……まぁ、合格か不合格かについてはあとで連絡するから」と言われた。ここでも結果はすぐに出なかった。それで「今日は試合を見て帰りなさい」と言われて、客席で試合を観戦した。実は大日本プロレスを見るのは、それが初めてだった。確か、セミファイナルで山川竜司&田尻義博組vs藤田穣&本間朋晃組という試合があって、藤田さんが田尻さんから勝った。メインは、ザ・グレート・ポーゴ&シャドウWX&シャドウ・ウィンガー組vs松永光弘&中牧昭二&ジェイソン・ザ・テリブル組のサボテンデスマッチだった。(1998年3.25 後楽園ホール)それから何日か東京にいたけど、とりあえず、テストも受けたし、目的は果たしたということで、帯広に帰ることにした。

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