葛西純自伝『狂猿』第5回 九死に一生を得た交通事故、あのときプロレス界の歴史は変わっていたかもしれない

葛西純自伝『狂猿』第5回

葛西純自伝『狂猿』

 葛西純は、プロレスラーのなかでも、ごく一部の選手しか足を踏み入れないデスマッチの世界で「カリスマ」と呼ばれている選手だ。20年以上のキャリアのなかで、さまざまな形式のデスマッチを行い、数々の伝説を打ち立ててきた。その激闘の歴史は、観客の脳裏と「マット界で最も傷だらけ」といわれる背中に刻まれている。クレイジーモンキー【狂猿】の異名を持つ男はなぜ、自らの体に傷を刻み込みながら、闘い続けるのか。そのすべてが葛西純本人の口から語られる、衝撃的自伝ストーリー。

第1回:デスマッチファイター葛西純が明かす、少年時代に見たプロレスの衝撃
第2回:勉強も運動もできない、不良でさえもなかった”その他大勢”の少年時代
第3回:格闘家を目指して上京、ガードマンとして働き始めるが……
第4回:大日本プロレス入団、母と交わした「5年」の約束

人にも環境にも恵まれた道場生活

 寮での生活は、朝8時には起きて、合同練習を朝10時から昼の1時まで3時間みっちりやる。当時、練習を仕切っていたのは本間(朋晃)さんだった。本間さんはアニマル浜口ジム出身で、とにかく練習好きで、厳しかったね。

 合同練習が終わったら、ちゃんこを作って、食い終わったら炊事に洗濯なんかしてたらもう夕方。それから近所のスーパーにちゃんこの買い出しに行って、仕込みが終わったらウエイトをやって、夜中の10時くらいにまたみんなでちゃんこ食べて。それで風呂入ったりしてたら、あっという間に深夜になって2時くらいに就寝。そんな毎日を送ってた。

 練習は本当に厳しかったけど、不思議なことに居心地は良かった。本間さんにしろ、藤田(ミノル)さんも(アブドーラ)小林も、俺っちからしてみたら「年下の先輩」になるんだけど、理不尽なイジメとかは一切なくて、練習のとき以外は友達感覚で接してくれた。 


 いちばんキツかったのは、合同練習をみっちりやって、「もう動けません、ヘトヘトです」っていう頃に、それまでウエイトばっかりやっていた山川さんがリングに上がってきて、「よし! お前らシュートの練習だ!」って、ヘロヘロの俺たちに対して、片っ端から関節を決めていくことがあって、それは無いなって思ったね。

 でも、あの頃の大日本じゃなかったら、俺っちはプロレスラーとして1人前になれなかったし、人にも環境にもすごく恵まれていたと思う。

 おなじくらいに入った練習生が3人いて、同期、といえるのは俺っちを含めた4人。8月に入ったころ、(グレート)小鹿さんが「お前ら盆休みなんだから田舎帰ってええんやぞ」って言いだして、俺っち以外の3人は「ありがとうございます!」と田舎に帰ってしまった。「葛西は帰らないのか」って聞かれたけど、「自分はプロレスラーとして一人前になるまで帰りません」と言い切って、そこで褒められると思ったら「そうか。だったらメキシカンの世話頼むな」って言われて、みんなが田舎に帰ってるときに、俺っちだけメキシコから来てたファンタスティックの飯を作ったりしてたね。

 俺っちもちゃんと食べてたんだけど、入門したときに93キロあった体重が、練習のキツさと猛暑のせいで、80キロくらいまで激ヤセしていった。そんな頃に、山川さんから「大阪の鶴見緑地公園大会でデビューさせるから」と唐突に言われた。

 入門して、まぁ2カ月くらい。道場では受け身しかやってないし、技なんて何も教わってない。それでも俺っちは、デビューするってことはプロレスラーになれるっていうことだから、早いに越したことはないって覚悟を決めたんだけど、同期の1人が「何もできない。どうしよう」ってパニックになって、大阪へ向かう日に夜逃げをしてしまった。結局、大阪では同期3人がデビューすることになった。

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