藤津亮太が語る、2010年代のアニメ評論「回答を作品の中に探していく」

藤津亮太が語る、2010年代のアニメ評論

 「アニメを言葉でつかまえる」。

 アニメ評論家の藤津亮太氏はそんな課題に挑み続けている。2010年代のその実践をまとめた『ぼくらがアニメを見る理由ーー2010年代アニメ時評』が8月24日に刊行されて以来、好評だ。発売2週間で重版が決定、今年の話題作『天気の子』や『プロメア』『海獣の子供』などもさっそく収録されており、『魔法少女まどか☆マギカ』などの2010年代初期の話題作から、海外アニメーションについてまで網羅的に語り尽くしている。国際的にも注目される日本のアニメだが、アニメを主戦場にした評論家は実写映画に比べて圧倒的に少ない。長年一貫した姿勢でアニメを批評し続けてきた氏の言葉の集積は、現代の日本アニメを理解する上でのヒントに満ちている。

 そんな藤津氏に改めてアニメを評論することの難しさや楽しさ、自身の評論のスタイルについて話を聞いた。(杉本穂高)

アニメが心を震わせる秘密を書くのが仕事

――本書のタイトルは『ぼくらがアニメを見る理由』となっていますけど、このタイトルの由来は何でしょうか。

藤津:これは以前からアニメコラムのタイトル案でよく提案していたものです。もうバレバレで、いろんな人から指摘されていますが(笑)、小沢健二の『ぼくらが旅に出る理由』から取っています。自分の書いている原稿に合ったフレーズだなと思っています。ざっくり言うと、みんなアニメを観るのは心を震わせたいからでしょうし、その心を震わせてくれる秘密を書くのが僕の仕事ですから。

――シンプルな感想ですが、最初に本書を手にした時、すごく分厚いなと思いました。それに取り上げられている作品数もすごく多いですね。

藤津:今回の本には「アニメの門」という連載で書いた原稿が多く収録されているんですけど、この連載も7年続いています。その長い連載期間で取り上げた原稿から6割、さらに『ユリイカ』などで書いた長い原稿を加えたら、結果として24万字の大ボリュームになりました。最初に僕が提示したものは30万字くらいあったんですけど、いろいろ調整して、常識ギリギリの範囲に収まったのかなと思います。

――藤津さんが連載で作品を取り上げる基準はあるのでしょうか。

藤津:注目作であることと、自分が観た時にこれは書くべきだなと思えるポイントがあるかどうかですね。その2点が重なるものを取り上げるのが基本です。あと、作品を観るのが遅かったりすると、世間の作品に対する疑問の様子を観て、これは書いた方がいいなと思って書く場合もあります。あと、海外アニメーションなど、日本のアニメファンの中でまだまだ主流ではないものの中から、素晴らしい作品なので興味を持ってもらおうと思って取り上げているものがあります。

――今回の本でも海外アニメーションに一つ章を割いていますね。

藤津:時評の連載を続けていたら、海外作品についての原稿も結構数があったんです。

――海外アニメーション作品について書く時は、何か意識することはありますか。

藤津:強いて言うなら日本にこういうアニメがないのはなぜだろうと思いながら書いています。例えば、『パラノーマン ブライス・ホローの謎』なんか、娯楽性も高くてメッセージ性もすごくしっかりしていますけど、ここまで直球で考えさせられる作品は日本には少ないですよね。それはなぜだろうと思うということは考えます。逆にいうと、日本にないからこそ、観てほしいとも思いますが。

――日本のアニメに欠けたものを海外作品に見出しているということですか。

藤津:そういう感じともちょっと違いますね。海外のいくつかの作品は、根っこにあるものは同じものなのでしょうけど、それぞれ違うものに進化したという印象があるんです。その中でも、たまに流れが近づいた作品が現れることがあって、そういう重なりそうで重ならない微妙な距離の作品を取り上げているというイメージです。

作家でアニメを語らない理由

――藤津さんは、最初の単著『アニメ評論家宣言』の頃から、一貫して作家で作品を語らないというスタンスを貫いておられます。その姿勢はこの本でも同様ですが、一方、作家でまとめた章も設けられていますね。

藤津:それはまず、本の構成についてメリハリがあったほうがいいと編集さんと話したということがあります。また、もとの原稿の発注を受けた段階で「この監督について執筆してください」と依頼されるケースもあるからです。幸いにして、今回の本で名前をあげてまとめた方々は、インタビュー記事なども多いですし、どの程度制作の細部まで関与しているのか把握しやすく、どんな考えで作品に臨んだのかも語っておられます。それならば、個人名を上げて書いてもいいかなという感じですね。

――『アニメ評論家宣言』と今回の本ではともに作家でまとめた章がありますが、そこに登場する顔ぶれがだいぶ変わりましたね。本書では新海誠監督、山田尚子監督、片渕須直監督、細田守監督を取り上げています。宮崎駿監督と高畑勲監督は両書ともに入っています。

藤津:『アニメ評論家宣言』の時はスタジオ・ジブリの絵コンテ本のために書いた原稿が手元に多かったので、宮崎監督と高畑監督の原稿が多いんです。そこに押井守監督と富野由悠季監督を加えました。あの本は年代で区切っていないので、大御所の方たちを取り上げましたが、今回は2010年代のアニメ時評ですからそのときに話題に上った人が中心になっています。

――しかし、このような作家論のようなものは藤津さんのお仕事の本流ではないわけですね。

藤津:そうですね。名前を挙げずに作品の話ができるのであれば、その方がいいと思っています。

――本来、アニメは集団作業ですから、それぞれの細部や描写が誰のアイデアなのかはわからないことが多いですよね。これは本来、実写映画も同じはずで、現場の話を聞けば、見事なカメラの構図が撮影監督のアイデアだったり、芝居のアイデアも役者のものだったりすることは多々ありますけど、実写映画の場合はそれでも作家主義的に作品を語ることがすごく多いのですが、アニメの場合はやはりそうすべきではないとお考えですか。

藤津:単純にわからないことは書けないし、書くべきじゃないと思っているんです。以前、映画のプレス用の原稿の依頼があり、スタッフ個人のクリエイティブを際立たせるために、作品の特徴のひとつを「これは脚本家のアイデアなのではないか」と書いたことがありました。そうしたら、それは実は監督が直したものだったんです。その時、やっぱり印象で書いてしまってはいけないと思ったんです。あと、そもそも作品を観ている時は、作家の名前で作品を観ているわけじゃないですよね。さらにいえば、監督自身も自分の描きたいものをやるためにやっているとは限らない、ファンの求めるものを届けたくてやっているという人もいらっしゃるわけで、すべてを作家の名前に還元するのは難しいなと。もちろん、細かく観察すればそれぞれの監督の個性はあります。でも、そればかり観ていると監督の指紋の痕だけを探すような文章になってしまうと思うんです。僕はライターとして監督に取材することもあるので、疑問があればそこで聞けばいいと思っていて、逆に作品を観る時はできる限りそことはちょっと切り離して純粋に作品と向き合うようにしています。

――藤津さんのその姿勢の真摯さは、細田守監督の作品についての原稿を読むとよくわかる気がします。近年の細田作品についての言説の多くは、作品そのものよりも監督自身のパーソナリティに寄りすぎているのではと思っています。

藤津:そうですね。しかもそれってご本人がインタビューなどで言及した範囲のパーソナリティですよね。

――藤津さんの原稿にはそういう要素が一切ないんです。まっすぐに作品だけを観ている感じがします。

藤津:細田監督の作品に限らず、作品を見て「わからない」と感じる部分はしばしばあるんです。そういう時は、「なぜ僕はこういう印象を持ったのか」を正面から考えて書くようにしています。自分が「わからない」と感じたことにも根拠があるはずですから。

――細田監督についてもそうですが、2010年代にはSNSが社会に普及して、いろんな声が聞こえてくるようになって作品そのものと向き合うことを難しくしている面もある気がします。そういう世間の声に引っ張られそうになることはないのでしょうか。

藤津:引っ張られるということはありませんが、さっきお話したように世間の人々が抱いている疑問から何を書いたらいいいかのヒントをもらうことはあります。例えば、『君の名は。』は、彗星の事件で多くの人が亡くなったことをなかったことにしていいのか、とたくさん言われましたよね。でも、そのことを新海誠監督が疑問に思わなかったのかということをまず考えるべきだと思うんです。疑問に思ったのなら、作品の中に必ず回答はあるはずだと思って作品を観るようにしています。我々はたった2時間で映画を観てしまいますが、作り手は企画からだいたい3年間かけているわけです。多くの場合、こちらが引っかかった部分は作っている方も気づいているはずだと思って作品と接した方がいいと思います。そうやって、世間の疑問に対する回答を作品の中に探していくということはあります。

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