現代アニメ論が示す、アニメとガジェットの関係性ーー石岡良治『現代アニメ「超」講義』レビュー

渡邉大輔の『現代アニメ「超」講義』評

 去る6月、批評家・石岡良治の新著『現代アニメ「超」講義』(PLANETS)が刊行された。単著『視覚文化「超」講義』(フィルムアート社、2014年)、『「超」批評 視覚文化×マンガ』(青土社、2015年)、そして映画批評家・三浦哲哉との共著による鼎談集『オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議』(フィルムアート社、2018年)に続く、石岡のいわば「超」シリーズ第4作である。

 ポピュラーカルチャー・表象文化論研究の第一人者として、これまでも読者の圧倒的な支持を集めてきた著者は、『視覚文化「超」講義』では映画や現代美術、アニメ、ミュージック・ビデオ、ゲーム、ホビーといった視覚文化全般を、続く『「超」批評』ではマンガを、そして『オーバー・ザ・シネマ』ではおもに海外映画を縦横無尽に論じて/語ってきた。そして本書では、満をじして、現在の著者がその批評活動の主軸としている「現代アニメの魅力について「超」講義していく」(10頁)破格の評論書となっている。

 21世紀以降の日本アニメでいわゆる「ポスト宮崎駿」=「国民的アニメ作家」の地位を獲得したと見られる細田守を補助線に置いた序章に続き、いまやだれしもがその全貌を俯瞰しがたい広大な現代アニメをめぐる問題のなかから、著者は4つの論点に着目し講義形式で取りあげていく。すなわち、第1章では、深夜アニメ表現の展開、第2章では、「動画時代」の今日を象徴するふたつのスタジオ、「シャフト」と「京都アニメーション」の作品群の現代的意義、第3章では、かつてのアニメの代表的ジャンルだったロボットアニメの今日的なポテンシャル、そして第4章では、女児向け作品を中心としたキッズ枠アニメの可能性が論じられる。以上の本論を経て、終章では『君の名は。』の新海誠を細田に代わる補助線に据え、「ゲームとの交流」といった最新の事例などから、アニメという無限大のユニバース=神話論理の行方が展望される。

 議論全体をつうじて、ゆうに600(!)を超える作品や作家がつぎつぎと参照され、『視覚文化「超」講義』などと同様、博覧強記の著者ならではの圧倒的な情報量とスピード感で、それまでぼんやりとしていた現代アニメに鮮やかな輪郭が浮かんでくる読書体験は、じつにスリリングだ。また、もともと著者が出演するネット配信の動画番組の内容が元になっていることもあり、ライブ感溢れる口語文体も読みやすい。今後、現代のアニメシーンについて考えるときに、絶対に欠かせない本になることは間違いない。

 とはいえ、2019年は、いわば「アニメ論の当たり年」だったといってよい。本書以外におもだったタイトルを挙げてみても、文芸評論家・町口哲生の『平成最後のアニメ論――教養としての10年代アニメ』(ポプラ新書)、アニメ批評家・高瀬康司編著の『アニメ制作者たちの方法――21世紀のアニメ表現論入門』(フィルムアート社)、マンガ/アニメ研究者・足立加勇の『日本のマンガ・アニメにおける「戦い」の表象』(現代書館)、アニメ評論家・藤津亮太の『ぼくらがアニメを見る理由――10年代アニメ時評』(フィルムアート社)……など、多彩で充実した内容の書物が続々と刊行されている。また、須川亜紀子・米村みゆき編『アニメーション文化55のキーワード』(ミネルヴァ書房)のような良質の入門書も現れた。こうしたアニメにかんする書籍の充実ぶりは、幾原邦彦(『さらざんまい』)、原恵一(『バースデー・ワンダーランド』)、湯浅政明(『きみと、波にのれたら』)、新海誠(『天気の子』)、片渕須直(『この世界の(さらにいくつもの)片隅で』)といった、重要クリエイターの新作がこれまた続々と公開されている、今年の創作の現場の充実ぶりとも陰に陽に連動しているだろう。

 以上の状況を踏まえて、この書評では、近年のアニメ論本や、関連する書籍の布置のなかに位置づけつつ、『現代アニメ「超」講義』の魅力をいくつかの点に絞って解説してみたい。

 たとえば、石岡は、本書では(多くのアニメ本が扱うはずの)ジブリアニメをあえて扱っていないことに注意を促しつつ、本書の要点を以下のように記している。

本書では、アニメ監督の作家性にも注目しますが、どちらかというと今世紀のアニメが、消費される環境とセットで受容される傾向が強まっていることを強調しています。[…]

[…]考えていきたいのは、アニメがときに「クールジャパン」というパッケージングのもとで持ち上げられた状況を追認することではありません。[…]

 むしろ、玩具であれゲームであれアイドルであれ、他のジャンルをブーストする強力なハブとしてのアニメの役割に注目したいと考えています。メディアミックスにおける「ハブ」としての役割をもつアニメを、単体で興味深い媒体とみなすこともできますし、私自身は日常的にはアニメをそのように楽しんでいます。けれども同時に、ややどぎつい言い方をするならば、他のホビーやエンタメと「寄生ないしは共生」する媒体としてのアニメの優れた性格に着目してみたいということです。(20-22頁、強調引用者)

 本書を通じて著者が描きだす現代アニメの姿とは、それ「単体」で固有に受容されるというよりも、むしろ隣接しあう無数の諸ジャンルとハイブリッドに交錯し、あるいは従来あったさまざまな区別や領域を融通無碍に横断しながら「寄生ないし共生」する、「メディアミックスにおける「ハブ」としての役割をもつアニメ」である。

 ここから本書では、膨大なジャンルの作品や表現のディテールを取りあげながら、そのネットワークの総体を高速で読み解いていく、著者にしかなしえない考察(別の論文の著者の言葉では「系列的読解」)が展開されるのだが、とはいえ以上の問題意識そのものは、じつは(わたしを含め)近年のアニメ批評やアニメ研究全体に見られる問題設定を共有してもいる。というのも、ここには――いみじくも著者が「動画の時代」という言葉でYouTubeからNetflixにいたる映像の消費環境の変化にたびたび注意を促すように――デジタル化や情報化による文化表現全体の変化(ポストメディア的状況)が大きくかかわっているからだ。たとえば、『アニメ制作者たちの方法』(ちなみに、石岡やわたしも寄稿している)や、土居伸彰の『21世紀のアニメーションがわかる本』(フィルムアート社、2017年)もデジタル化がもたらす同様の動きに注目したアニメ論の書物だし、原作マンガとアニメ作品の表現の違いを精緻に比較した細馬宏通の『二つの「この世界の片隅に」――マンガ、アニメーションの声と動作』(青土社、2017年)の議論もこれらと近いところにあるだろう。また、日本アニメをメディアミックスから捉える論点にかんしては、マーク・スタインバーグの『なぜ日本は<メディアミックスする国>なのか』(角川EPUB選書、2015年)という重要な先行研究がある。ついでにいえば、デジタル化の問題は、光岡寿郎・大久保遼編『スクリーン・スタディーズ――デジタル時代の映像/メディア経験』(東京大学出版会、2019年)など、アニメに限らず、近年の視覚文化批評・研究全体で共有されているテーマだ。

 ともあれ、アニメとは、「メディアミックスと共に歩んできた「不純」な媒体」(298頁)だと著者が的確に要約する本書もまた、ぜひこうした一連の注目すべき仕事と並行して読まれるべきだろう。

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