the band apart 木暮栄一「HIPHOP Memories to Go」第9回 制作スタイルの基盤が確立&<ASIAN GOTHIC LABEL>設立へ

バンアパ木暮「HIPHOP Memories to Go」第9回

 the band apartのドラマー・木暮栄一が、20年以上にわたるバンドの歴史を振り返りながら、その時々で愛聴していたり、音楽性に影響を与えたヒップホップ作品について紹介していく本連載「HIPHOP Memories to Go」。第9回は、1stアルバム『K.AND HIS BIKE』完成以降、バンドに訪れたという制作面での転換期と、その流れの中で再び関心が湧いていったメインストリームのヒップホップについて綴っていく。(編集部)

2ndアルバムに向かう中で訪れたthe band apartの転換期

 わたくし、木暮栄一と申します。

 the band apartという変なバンドに所属しつつ、世間一般的には、図らずもドラマーとして20年以上キャリアを積んできた手前、技術というよりはその経験を活用してドラムレッスンなどを行っております。

 レッスン生と話していて時の移ろいを感じるのが、僕たちの時代には、例えば練習スタジオや楽器店の掲示板、あるいは音楽雑誌のいちコーナーだった“バンドメンバー募集”が、今はSNS上で行われているということ。こういったアナログからデジタルへの移行にいちいち嘆息して、「俺らの頃は……」なんて話し出すようでは、場末の飲み屋で部下に昔話を聞かせる酔っ払い上司のようで恐縮だが、このコラムのテーマ自体が昔話なのだからしょうがない。部下が退屈してスマホに目をやらない程度に、緩急をつけて筆を進めていきたいと思います。

 the band apartにとって1stアルバム『K.AND HIS BIKE』から、2ndアルバム『quake and brook』をリリースするまでの2年間がバンド史上1つ目の大きな転換期だったと思う。

 前回までに触れてきたように、それまでの楽曲制作は、メンバー皆のアイデアが散りばめられていた部分もあるとはいえ、作編曲は主に原昌和(Ba/Cho)、作詞は僕が担っていた。そのシステムが1stアルバムの制作において飽和してしまったのは以前書いた通りである(※1)。それを経て起こったのが、「アイデアを出した者が曲としてまとめるところまで監督する」という、現在の僕たちの制作スタイルの基盤になるような意識の変化だった。

 1stアルバムの制作終盤、とあるプライベートのトラブルによって原が席を外さざるを得ない状況があった。現在に輪をかけてボンクラだった僕は、「わーい、これでしばらく休めるぞ」と漫画などを読みながら紫煙を燻らせていたものだが、荒井岳史(Vo/Gt)は違った。

「原がいなくても、俺らだけでなんとか曲を作れないかな。締め切りもヤバいし……」

 真面目な顔の荒井にそう促されて、スタジオで2時間くらいセッションをした記憶がある。

 そのセッションがアルバム楽曲として形になることはなかったものの、荒井はこの時期から積極的に、自分のアイデアに付随する全体的なイメージを他のメンバーに伝えるようになった。原に制作面の負担がかかりすぎていることへの友人としての懸念や、自分の思い描く音楽を形にしてみたいという自然な欲求の発露が起こしたであろう変化である。 

 そうしてできたのが「higher」と「amplified my sign」。

 「higher」は荒井がメインとなるリフとメロディを考え、そこに原が加わって共同で編曲作業を行いできたものだ。歌詞に関しても、具体的な音のイメージ(伸ばす音の母音は“ア”が良い、とか)に沿って2人で書いていった記憶がある。タイトルでありサビの歌詞でもある〈higher〉は、荒井がラフを作っていたときの仮歌詞をそのまま使った。

 「amplified my sign」は原と荒井のアイデアをミックスして生まれた曲。この2曲のリリースに先駆けて、僕たちは所属していたレコード会社からKと共に独立を果たし、<ASIAN GOTHIC LABEL>を作ることになるのだった。

 今の世の中、Google先生にお伺いを立てれば、ものの数秒で目当ての情報にたどり着くことができる。ドラムレッスンに来ているバンド活動中の26歳に聞いても、例えば一般的な著作権の扱いやパーセンテージの知識があったりして驚かされるが、当時の僕たちにそんな知識は皆無だった。

 CDをリリースできれば何でもいい、くらいの気持ちで具体的な文言を大して読まずにサインした契約書の内容には“ファースト・オプションなんとか”みたいな謎の項目が含まれていて、ざっくり言えば、「契約は基本的に自動延長、勝手な独立なんて許しませんよ。あ、お金くれるなら話は別です……」というような内容だった。

 そうした契約上の制約や、誰のおかげで売れたと思ってんだ、という義理人情的力学を背景にした圧力もあり、独立にあたってはスムースとは言い難い経緯があったが、その労は全てKが担った。そして、杉並区方南町の環状7号線沿いに小さな事務所を構えることになるのである。

 例えば新代田や渋谷のライブハウスへ向かうとき、その頃の事務所があった場所を必ず通る。その場所を目にして、時に複雑な思いに駆られながらも、どこか懐かしさに思いを馳せることができるのは、がたつく車輪で描くバンドの軌跡が、紆余曲折を経ながら今もまだ途切れていないからだろう。

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