the band apart 木暮栄一「HIPHOP Memories to Go」第8回
the band apart 木暮栄一「HIPHOP Memories to Go」第8回 インディーズ隆盛期のバンド活動&DJ Shadowなど新たな刺激も
the band apartのドラマー・木暮栄一が、20年以上にわたるバンドの歴史を振り返りながら、その時々で愛聴していたり、音楽性に影響を与えたヒップホップ作品について紹介していく本連載「HIPHOP Memories to Go」。第8回は約20年前、CDバブル&インディーズシーン隆盛期のバンド活動を振り返りながら、刺激的なアンダーグランドミュージックとの出会いについても綴っていく。(編集部)
2000年代初頭、インディーズレーベルでのバンド活動の在り方
テンポ良く書かれた読み物は読みやすい。
この連載に関しても、回を重ねるごとにサクサクと話を進めていきたい……という筆者の思いと逆方向に脳は働き、話の時系列はなぜか前回から少し遡ります。
1stアルバム『K.AND HIS BIKE』を出す前のシングル『Eric.W』のリリースツアーでは、全員お金がなさすぎて、食費節約のためライブハウスの楽屋で米を炊いていた。おかずは僕の勤務先から持ってきた賞味期限切れの大量の缶詰。リハーサル前に持ち込みの炊飯器をセットしておき、他のバンドがリハをしている間に皆で“缶詰とライスセット”を食うのである。袋の口を閉め忘れ、ハイエースの荷台にこぼれた米が広がっていたこともあった。
自分たちで企画した関東と名阪のライブ以外は、各地のブッキングライブにねじ込んでもらう、そんな形のツアー。シングル2枚を出したものの、インディーズバブルに沸いていた当時、そんなバンドは星の数ほどいたし、僕たちを知っているお客さんはほぼゼロ、という状況も当然のようにあった。
そういったライブでは無論ギャラなど出ない。運が良ければ物販が少し売れるくらいのものだったから、ツアーの収支は最終的に赤字だったと思う。宿泊も良くて健康ランド、もしくは車中泊。それぞれが貯めていたバイト代を持ち出しながらのツアーだった。
しかし、それは僕らの活動する界隈では当たり前の環境で、例えばBRAHMANやHAWAIIAN6のような叩き上げのバンドは皆、活動当初に似たような道を通っていると思う。そんな経験を経ているからこそ今の環境のありがたさがわかるし、その時期に培われた粘り強さのようなものが現在の僕たちの活動に繋がっている。それは上記の2バンドを見ていても感じることだ。しかし何より、そんな状況が苦にならないほど、知らない土地、未知のお客さんの前でライブをするのは、ただただ刺激的で楽しかったのである。
それから約1年後に『K.AND HIS BIKE』を無事リリースしたものの、まだまだ音楽で生活するには至らなかった。
約20年前、音楽を聴くならCDとCDプレイヤー、という時代。チャートには小室哲哉やつんく♂プロデュースのミリオンヒットが名を連ね、CD市場は隆盛を極めていた。その好景気の余波はインディーズシーンにも及んでいて、大小のインディーズレーベルが数万枚のCDを当たり前のように売り上げていた。
そんな中、僕たちが最初に契約したインディーズレーベルは都心一等地のビル内にあり、地下には専用の豪華なレコーディングスタジオも所有していた(そのスタジオで“プリプロ”という名を借りたふざけをくり返す僕たちの横をX JAPANのメンバーが通り過ぎて行ったこともある)。
さらには、スポンサーとして深夜の音楽番組を1枠持っているなど、資金力の面で他のインディーズレーベルとは一線を画していた。実際は“インディーズ”というイメージを上手く利用したメジャー資本の子会社だったのだから、その潤沢な資金力も当然の話ではある。
しかしそれゆえか、この会社のやり方に反感を持っていた音楽関係者やバンドマンもたくさんいて、最初のシングルをリリースした後、「え、あのレーベルから出してんの? なんで?」という問いかけから始まる会話を数十回は交わしたと思う。
そんな風評を歯牙にもかけず、「この会社のプロモーション力はすごい、ここからリリースすれば最短でブレイク間違いなし、ヒャッハー!」といった計算高いアタマが当時の僕たちにあるわけもなく、それではなぜ件のレーベルからシングル2枚、アルバム1枚をリリースすることになったかと言えば、OやKといった年の近いレーベルスタッフたちが、僕たちのライブに熱心に足を運んでくれていたからに尽きる。
インディーズシーンの隆盛を商機と捉えたビジネスパーソンが立ち上げた名ばかりのインディーズレーベルだったかもしれないけど、実際に現場で働いている人間は気のいいボンクラばかりだった。CDバブルの終焉と共にその会社はなくなってしまったが、当時のスタッフたちは今でも音楽業界の様々な場所で活躍している。
そんなスタッフたちと酒を飲んだりして仲を深めていったある日、のちにK-PLANという会社を立ち上げるKという男が言った 「この会社を踏み台にしていずれ独立しよう。俺らだけで全部やろうぜ」という言葉は、僕たちの心を大きく動かした。彼の熱意がなかったら、僕たちの未来はまた違ったものになっていただろう。
当時の音楽ビジネスの仕組みやお金の流れ、アーティストに支払われる印税のアベレージさえ知らなかった僕たちは、レーベルが用意してくれる潤沢な予算と環境に面食らいつつ、万を超えてCDが売れてもバンドに入るのはこんなもんなんだな〜と、その契約内容を特に疑問にも思わず、相変わらずアルバイトに明け暮れていた。
CDがリリースできれば、はっきり言って他はどうでも良かったからだ。
その頃の僕は、完全歩合制になった歌舞伎町のキャッチを辞め、池袋の居酒屋からさらに江古田のスーパーの深夜勤務へと職を変えた頃だったと思う。1300円という時給は魅力的だったし、深夜客の少なさも手伝って仕事内容的には非常に楽だった。23時に出勤して終電までのレジをさばいてしまえば、1時間に2〜3人しか客は来ないのである。
社員もその時間には帰宅してしまうので、24時過ぎにはデフォルト設定の店内BGMを自分の好きなものに変え、それを聴きながら広い店内の品出しや補充を片付けていく。同僚のアルバイトもほとんどが同世代の学生ばかりだったので、ちょっとタバコ吸ってくるわ、と皆で勝手な休憩を取りまくっていた。さらに廃棄処分の弁当や惣菜も山のようにあったので、食費も相当浮かすことができた。そんな職場環境から得た廃棄食材は冒頭に書いたツアーの、文字通りの糧となった。