宇野維正×森直人と振り返る「ザ・シネマメンバーズ」の歩み 必見のアンドレ・テシネ作品も

宇野維正×森直人、ザ・シネマメンバーズ対談

「スターが出ている」アンドレ・テシネの映画

『野生の葦』©1993 STUDIOCANAL

――ちなみに、10月はアンドレ・テシネ特集です。90年代の作品がラインナップされているわけですが、それについてはいかがですか?

森:僕、テシネについて語るの、マジで今回が初めてなんですよね。そういう意味では、貴重な機会だなって思いますし、嬉しいですね。

宇野:自分もプライベート含めて初めてですよ。代表作のいくつかはリアルタイムで観てきたけど、日本でどんな感じで語られてきたのかなって調べてみても、ネットだとテシネについての記事なんてほとんどヒットしないっていう(笑)。

森:だからこそ貴重なんですよ(笑)。

――アンドレ・テシネは1943年生まれなので、ゴダールやフランソワ・トリュフォーよりひと回り下の世代。ただ、その2人と同じように『カイエ・デュ・シネマ』誌で映画批評を書きつつ、その後監督になったというキャリアの持ち主です。それこそ、今回のラインナップに入っている『深夜カフェのピエール』(1991年)ぐらいから、リアルタイムで日本公開されるようになった印象がありますけど……。

『深夜カフェのピエール』©1991 STUDIOCANAL - M6 Films - Gruppo Bema

森:実のところ、僕は90年代に日本公開されたテシネの映画は全部観てる。ただ、アンドレ・テシネという名前で観に行った覚えは基本ないんですよ。キャストの俳優、特に女優につられて観てみたら、その監督がテシネだったっていうパターンがめちゃくちゃ多い(笑)。こういう監督は、自分にとってクロード・ミレールとテシネが双璧でした。彼らは世代的にも近いですよね?

――『なまいきシャルロット』(1985年)などで知られるクロード・ミレールは1942年生まれなので、ほぼ同年代ですね。

宇野:フィリップ・ガレルも同じ世代だっけ?

――ガレルは1948年生まれだから、そのちょっと下の世代になるのかな?

宇野:なるほど。要はポスト・ヌーヴェルヴァーグの流れというか、次世代のヌーヴェルヴァーグには2つの流れがあって。ガレルとかは私小説的というか、人間のあるがままを撮っていくみたいな方向に流れ行って、そのままどんどん先鋭化していったわけだけど、テシネとかミレールっていうのは、いわゆる物語というか、フィクションをちゃんと撮るっていう方向に行った監督ってイメージがあるんだけど、それで合ってる?

森:まさに、そうだと思います。

宇野:で、ガレルの作品は、わかりやすく前衛感があるから、「ヌーヴェルヴァーグを引き継いだ」っていう意味では飲み込みやすいけど、テシネの作品は、ある意味、ヌーヴェルヴァーグが出てきたときに、それこそ『カイエ・デュ・シネマ』でトリュフォーが批判対象にしていたような、いわゆるフランスの文芸映画みたいなものに見えるようなところがあって。そこが、特に日本では語られにくい理由になってるんじゃないかな。

森:確かに、テシネやミレールの作家性というものは、やや見えにくいですよね。宇野さんがおっしゃったように、ガレルとか、あとジャン・ユスターシュ(1938年生まれ)というのは、ヌーヴェルヴァーグの弟世代の中でも、個人映画のほうに向かっていった作家です。逆にテシネとミレールは、商業映画のほうに向かった代表格と言えるでしょう。そのぶん、オーソドックスな映画の作法を身につけ、「スター映画」を任されることも多くなったわけですが、とはいえ、テシネの場合、それなりにクセは強いような気がする。

――クセはありますよね。

森:そう思います。対して、ミレールは本当に平易ですね。『なまいきシャルロット』とか『小さな泥棒』(1988年)、あとイザベル・アジャーニの『死への逃避行』(1983年)にしろ、基本的には普通の「良質なフランス映画」じゃないですか。ヌーヴェルヴァーグの後継の中でも、いちばん職人的な安定感があったのがミレールだと思う。ただ、テシネのほうは、もうちょっと尖っている。今で言うところのオリヴィエ・アサイヤスとかアルノー・デプレシャンとか、あのへんに近い感じがありますよね。実際、アサイヤスはテシネの弟子筋に当たるような人で、テシネ作品の脚本にも参加していますから。

宇野:でもまあ、そもそもの話として、日本におけるヌーヴェルヴァーグのイメージってゴダールに引っ張られすぎていてーーだからこそ若き日の自分はその神話を解体したいと思って無謀な質問を投げたりもしたんだけどーー他の主要な作家は、キャリアに応じて作品の語り口自体は中庸化というか、よく言えば洗練していったケースも多かったじゃない?

森:はい、まさに。テシネも基本的にはその系譜というか、ざっくり言っちゃえば、ヌーヴェルヴァーグ以降のフランス映画の王道ってところに属する人だと思います。多少のクセの強さや気難しさも含めて。僕が初めて観たテシネの映画は、今回のラインナップには入ってないけど『ランデヴー』(1985年)なんですよ。これは完全に覚えていて。ジュリエット・ビノシュにつられて観に行ったっていう(笑)。

――(笑)。

森:『ランデヴー』が日本で公開されたのは1990年なんですが、その頃って、ちょうど『汚れた血』(1986年)とか『存在の耐えられない軽さ』(1988年)が話題になって、新進としてのビノシュに注目が集まっていた頃だったんですよね。僕もめちゃめちゃハマってました。

――ちなみに、今回のラインナップに入っている『溺れゆく女』(1998年)も、ジュリエット・ビノシュが出ています。

『溺れゆく女』©1997 STUDIOCANAL - France 2 Cinéma - France 3 Cinéma - Vertigo Films

森:あと、『深夜カフェのピエール』は、エマニュエル・べアールが出ているじゃないですか。それこそ、この映画が公開された頃は、ジャック・リヴェットの『美しき諍い女』(1991年)で、べアールにすごい注目が集まっていた頃で。『深夜カフェのピエール』の日本公開は1994年ですが、僕も含めて、ほとんどの観客はベアール目当てで観に行ったと思う。だから、監督で観に行ってないんですよね。「女優先行」っていう。テシネには失礼な話だけど(笑)。

――それはあるかもしれないですよね。カトリーヌ・ドヌーヴも、今回のラインナップで言ったら、『私の好きな季節』(1993年)、『夜の子供たち』(1996年)に出演していて。いわゆる「作家性」よりも、主演女優の名前が前に出る監督というか。

宇野:自分が初めて映画館でテシネの作品を観たのは『ブロンテ姉妹』(1979年)で、日本公開は1988年。この作品にはイザベル・ユペールも出てたけど、当時の日本のフランス映画の興行でいうと、イザベル・アジャーニの主演作であることが非常に大きかった。80年代は、フランスの正統派美人女優と言ったら、何はともあれアジャーニだったんだよね。リュック・ベッソンの『サブウェイ』(1985年)で日本でも人気に火がついて、ちょうど『ブロンテ姉妹』と同時期にはアンジェイ・ズラウスキーの『ポゼッション』(1981年)も日本で公開されて。個人的には『ポゼッション』には「なんだこれ!」って大いに盛り上がったんだけど、『ブロンテ姉妹』は「そもそもどうしてフランス人がブロンテ姉妹の映画を作ってるんだろう?」って釈然としない思いのまま映画館に足を運んだ記憶がある(笑)。だから、テシネっていうのは、当時10代とかだった我々が、アジャーニとかビノシュとかの作品を追う過程で、ぶち当たる作家だったという。

森:もう、完全にそうですよ(笑)。監督目当てで観に行ってない。だけど、気がついたら大体観ていた、みたいな。

宇野:それこそ、『ブロンテ姉妹』なんてさ、まさにフランスの文芸映画であって、カイエ一派がいちばん批判してきたものだったわけじゃない。

森:まあ、本来そのはずですよね(笑)。

――ただ、トリュフォーの晩年の作品とかは、結構そっちに寄っていったところもあるような……。

森:さっき宇野さんがおっしゃったゴダール以外の作家の中庸化・洗練化の道っていうのを、最も露骨に辿ったのが、まさにトリュフォーですね。若き日の批評家時代に激しく否定していた「良質のフランス映画」に、彼自身がキャリア後半で向かっていったという捻れがありますから。逆の言い方をすると、トリュフォーの歩みこそが、ヌーヴェルヴァーグ以降のフランス映画の王道的なモデルを決定づけたという見方もできる。だから、もともとアメリカのB級映画を批評的に参照したヌーヴェルヴァーグの初心ってものを考えると、むしろジュリア・デュクルノーの『TITAN/チタン』(2021年)やレア・ミシウスの『ファイブ・デビルズ』(2022年)、ローラ・キボロンの『Rodeo ロデオ』(2022年)などジャンル映画的な志向を持つ新鋭監督たち……奇しくも女性作家ばかりなんですが、こちらのほうがヌーヴェルヴァーグの精神に忠実だと考えることもできる。まあ、そこは何とも言えないところがあるように思います。

宇野:そうだよね。正直言って、自分も現在進行形で熱心に追ってるのはそっちの方。ところで、さっき森さんが言っていた「クセが強い」っていうのは、どういう観点からなの?

森:単純に言うと、ハリウッドスタイルとは明確に区別できるようなズレや屈折ですね。アサイヤスとかデプレシャンも、たとえ中庸化しても、滑らかな説話構造とは言い難い斜線のような引っ掛かりが必ず話法に挟み込まれる。例えば今回のラインナップで言ったら、セザール賞を総なめにした『野生の葦』(1994年)はテシネの代表作と言えるもので、かなり平易な仕上がりですけど、それでもアルジェリア独立戦争下の「政治と性愛」を主題とした青春群像は、知的なアプローチがないと読み解けないフランス的な叙述そのものだと思います。当時これで注目されたエロディ・ブシェーズをはじめ、新人ばかりメインキャストに起用して、人物と風景を同時に捉えていくような描き方とかも。

『野生の葦』©1993 STUDIOCANAL

――あとは、セクシュアリティですよね。それがテーマではないんだけど、当たり前のようにセクシュアリティが揺らいでいる人物が登場するっていう。『深夜カフェのピエール』にしても、男娼と娼婦の恋愛みたいな側面もあるわけで。

森:そうですよね。ゲイやバイセクシュアルをはじめ、LGBTQ+モチーフはテシネ作品の先駆性のひとつだと思います。あと、さっき「政治と性愛」って言いましたけど、ポール・ニザンの『アデン・アラビア』的な精神や気分とでも言うのかな。「僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない」っていう、あの有名な書き出しが象徴する蒼い屈折のムードですね。それはゴダール、ガレル、テシネ、あとレオス・カラックスにしろ、セドリック・クラピッシュにだって、しっかり宿っている。この匂いを察知すると、僕は党派や作風を超えて、「ああ、フランス映画だ」って思っちゃうんですよね。まあ、勝手な好みの問題もありますけど。僕はテシネの作品では、『かげろう』(2003年)というエマニュエル・ベアールと新人時代のギャスパー・ウリエルが共演した映画がとても好きなんですが、これもまた「政治と性愛」を主題とするフランス映画そのものの味わいです。

宇野:なるほどね。そこは一貫しているのかもしれないよね。

森:あと、重要なのは、テシネの映画には「スターが出ている」こと。だからフランス本国では、日本の我々が思っている以上にリスペクトされているはずです。なんて言いつつ、僕も今回の企画が来るまで、テシネについて深く考えたことはなかった(笑)。だからこのタイミングで、アンドレ・テシネが作家の括りで紹介されるのは、嬉しい衝撃ですね。ミニシアターブームの時の受容体験を更新してくれるような、「こういう時代が来たのか」っていう驚きがある。

宇野:でもさ、今回のラインナップには入ってないけど、アジャーニやユペールも含めて、ドヌーヴ、ビノシュ、べアール、あと当時は新人だったけど『野生の葦』のエロディ・ブシェーズとか、名立たるフランスの女優と次々と仕事をしてきたっていうのは、やっぱり注目すべきことだよね。女優からの信頼が厚いというか、フランス映画って、やっぱり女優を中心に回っているようなところがあるじゃない? 影響力のある女優が監督を庇護していくというか、見込みのある監督を、女優がフックアップしていくみたいなところがあって。ドヌーヴとかユペールの映画界における存在感って、やっぱりいまだに絶大なものがある。

『私の好きな季節』©1993 STUDIOCANAL - TF1 FILMS PRODUCTION

森:確かに。女優が監督をフックアップするという文化こそ、フランス特有の重要な伝統かもしれない。ユペールはホン・サンスの映画にも出ているし、ドヌーヴに関しては、フランソワ・オゾンなど自国作家の映画はもちろん、それこそ是枝(裕和)さんの映画にも出ているわけで。

宇野:そうそう。だからきっと、ある種の「目利き」としての女優っていうのが、フランス映画の世界では、依然としてあるんだよね。それはハリウッドにはあまりなかった文化だし、それこそがフランス映画特有の一つの系譜とも言える。だから、テシネのように長年にわたってフランスを代表する女優たちに慕われてきた監督は、実際の現場とかも非常にストレスフリーというか、ノーハラスメントな環境なんだろうなっていうことも想像できるわけで。シネフィル的な評価はさておき、そういう点でも現代に通じる作家の一人と言えるのかもしれないね。

■配信情報
『私の好きな季節』
ザ・シネマメンバーズにて、10月7日(土)00:00~配信

『野性の葦』
ザ・シネマメンバーズにて、10月14日(土)00:00~配信

『夜の子供たち』
ザ・シネマメンバーズにて、10月21日(土)00:00~配信

『溺れゆく女』
ザ・シネマメンバーズにて、10月28日(土)00:00~配信

ザ・シネマメンバーズ:https://cineclub.thecinema.jp/

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