ジョン・カサヴェテスの映画は何がすごいのか その作家性や影響力を宇野維正×森直人が語る

カサヴェテスの映画は何がすごいのか

 セレクトされた良質な作品だけを配信する、ミニシアター系のサブスク、【ザ・シネマメンバーズ】。5月は“インディペンデント映画の父”と称されたジョン・カサヴェテス監督の5作品が順次配信開始。今回の配信を機に、映画・音楽ジャーナリストの宇野維正、映画ライターの森直人が、カサヴェテス映画について語り合った。

「人間の見たくないような部分」まで見せるカサヴェテス映画のすごさ

ーーまずは、日本における「カサヴェテス映画の受容の歴史」みたいなところから、話していきましょうか。

宇野維正(以下、宇野):以前この対談のシリーズで取り上げたエリック・ロメールと同じで、カサヴェテスの本格的な特集上映を初めて仕掛けたのは、自分がバイトで働いていた頃の90年代のシネ・ヴィヴァン六本木だったんですよね。シネセゾン配給で。

――1993年の特集上映「カサヴェテス・コレクション」ですね。そのときに、今回のザ・シネマメンバーズでもラインナップされている5作品――『アメリカの影』(1959年)、『フェイシズ』(1968年)、『こわれゆく女』(1974年)、『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』(1976年)、『オープニング・ナイト』(1977年)と、『ラヴ・ストリームス』(1984年)の計6本が特集上映されました。

森直人(以下、森):その特集上映の前、1990年に『オープニング・ナイト』が単独で日本公開されたんですよ。配給はシネマトリックス。そこが僕にとって、カサヴェテスのファースト・インパクトだったと思います。

オープニング・ナイト
『オープニング・ナイト』(c)1977 Faces Distribution Corporation

――あ、なるほど。1989年の2月にカサヴェテスが59歳で亡くなったのを受けて、1990年に『オープニング・ナイト』の追悼リバイバル上映があったんですね。

森:自分の年齢的にもそれ以前は高校生だし、カサヴェテスのことは意識したことがなかった。まさに亡くなった直後のタイミングから発見していった感じです。もちろん、『グロリア』(1980年)とかは、日本でもロードショー公開されていたし、テレビとかでも何度も放送されていたと思うんですけど、あの映画はカサヴェテスの監督作品って言うよりも、ジーナ・ローランズ主演のアクション映画っていうイメージが強かったじゃないですか。

――そうですね。

森:だから、90年代以降のミニシアター的なカサヴェテスのイメージとは、しばらく結びつかなかったところがあって。「あ、『グロリア』も、カサヴェテスが監督していたんだ?」っていう。

宇野:そうだよね。『グロリア』は、アート系の作品とかではなく、普通に娯楽映画だったし、そもそもメジャー系のコロンビアで撮っているから、インディペンデントですらないという。1989年にカサヴェテスが亡くなったのを受けて、1990年に雑誌『Switch』が、カサヴェテスの別冊特集を出したんですよ。それは日本において、相当先駆的な特集だったんだけど、その時点ではレンタルビデオを含めても、日本で気軽に見られる作品がかなり限られていて。その3年後に、「カサヴェテス・コレクション」がシネ・ヴィヴァンで開催されたという。だから、あの時は映画ファンにとってかなり待望のものだったんだよね。お客さんの入りもかなり良くて、あの時期はすごく忙しかった記憶がある。

森:その『Switch』買いましたもん(笑)。だから、まさに1990年が日本におけるカサヴェテス元年、というのは言い過ぎだとしても、少なくともそれ以前・以後では受容の位相が変わるように思う。亡くなってから、本格的に日本でも回顧・参照されるようになったという。

宇野:もちろん、シネフィルのあいだでは、それ以前から「インディペンデント映画の父」として、カサヴェテスの名前は知られていたけど、過去作をまとめて観る機会は、それまでほとんどなかったんだよね。

>>【ザ・シネマメンバーズで観る】

――それこそ、この対談シリーズで何度も触れている、80年代の後半から90年代にかけて日本で盛り上がった、いわゆる「ミニシアターブーム」の流れの中で、カサヴェテスの存在が、その死と共に浮上してきたという。

森:そうそう。あと、もうひとつ、2000年に「カサヴェテス2000」っていう特集上映があったじゃないですか。それはシネセゾンではなくビターズ・エンドの配給で、『愛の奇跡』(1963年)、『ハズバンズ』(1970年)、『ミニー&モスコウィッツ』(1971年)、『グロリア』(1980年)の4作品が特集上映されて。そのタイミングでカサヴェテス映画に触れたっていう人も、結構多いと思うんですよね。それこそ、カサヴェテスからの影響を公言している濱口竜介監督は、そのタイミングで観たようだし、俳優の西島秀俊さんも、そのときにまとめて観たっておっしゃっていました。

宇野:なるほど。そこでまた日本では新しい文脈が生まれたんだろうね。1993年の「カサヴェテス・コレクション」の特集上映が行われた当時は、カサヴェテスって自分よりも10歳ぐらい上の世代に、ものすごい信者みたいな人がたくさんいて。当時、インディペンデントで映画を撮っているような人にとっては、既にあこがれの存在ではあったんだよね。

――それは、どんな理由で?

宇野:それはやっぱり、カサヴェテスの公私にわたるパートナーであるジーナ・ローランズだったり、俳優仲間でもあるピーター・フォークだったり、自分の身の回りの日常から、地続きに映画の世界が存在する感じというか。そういう価値観って、あの時代には他にあまりなかったんだよね。自分も仲間たちと、あんなふうに映画を作りたいっていう。

『こわれゆく女』(c)1974 Faces International Films,Inc.

――なるほど。

宇野:あと、自宅を抵当に入れて『フェイシズ』を撮ったり……カサヴェテス自身も、自分の映画を撮る資金作りのために、俳優の仕事をやっていたみたいなところがあるじゃないですか。その「在り方」みたいなものは、たとえば映画館で働いていたり、別の仕事をしながら自分の映画を撮るための資金作りをしているような人たちにとっては、ひとつのロールモデルになっていて……まあ、ほとんど幻想なんだけど(笑)。

森:わかります(笑)。ただ伝説としては美しい話ですよね。

>>【ザ・シネマメンバーズで観る】

宇野:だから、個人的には、そういう自分よりも上の世代の「圧」みたいなものを、ちょっと感じていて。当時、シネ・ヴィヴァンでカサヴェテスの映画をひと通り観て、すごいなとは思ったけど、どこか自分の世代のものではないなっていう感じが、実はちょっとあったんだよね。

森:なるほど。確かに僕も作品的には非常に衝撃を受けたんですけど、宇野さんがおっしゃったことに近い距離感はやはり感じていたかも。自分が新たに評価し直す隙がない、というか、あらかじめ歯向かえない「教養」として降りてきた部分は正直ある。もっとナチュラルに「自分の世代のもの」と感じられる映画が他にいっぱいあったし。

こわれゆく女
『こわれゆく女』(c)1974 Faces International Films,Inc.

――まあ、いわゆる「おしゃれな映画」とは、ちょっと違いますからね。

宇野:そう、「おしゃれな映画」っていうのとは全然違っていて、もっと人間の本質に迫るようなもの――人間の見たくないような部分まで見せるみたいなところがあって。そこがカサヴェテスのすごいところというか、それこそ『こわれゆく女』とかに象徴的なように――あの映画は、今で言うところのメンタルヘルスの問題を、かなり先駆的に描いた作品だったと思うけど、当時のおちゃらけた大学生にとっては、「いや、ちょっと重いっす」っていうのが正直なところで(笑)。

森:ははは(笑)。まあ、出会い方っていうのは、確かにいろいろありますよね。さっき言ったように、「カサヴェテス2000」世代と呼べる1978年生まれの濱口竜介監督などにとっては、我々が感じていたバイアスや抑圧がなくて、直接的で生々しい衝撃を持ってカサヴェテスを受け止めたのかもしれない。西島秀俊さんは1971年生まれなので、実は我々と同世代なんですけど、映画を熱心に観るようになったのは俳優デビューした後なんですって。だから実質「カサヴェテス2000」世代に属する、ということなんですけど、そこで面白いのは、西島さんはその前に、諏訪敦彦監督の『2/デュオ』(1997年)に出演されていて。あの映画って、明らかにカサヴェテスの影響下から立ち上がった傑作だから。

――あ、確かに。

森:カサヴェテスの映画と出会う前に、カサヴェテス的な現場で仕事をしていたという。そして諏訪監督が1960年生まれだから、先ほど宇野さんがおっしゃられたように、まさに我々の10歳ぐらい上の世代になるっていう。

宇野:そうだね。諏訪さんとか、まさにその世代だと思う。

森:だから、その世代に、カサヴェテス大好きっていう方々が、結構たくさんいて。あと、僕がよく覚えているのは、1991年にショーン・ペンの初監督映画『インディアン・ランナー』(1991年)が公開されたじゃないですか。あの映画って、その頃亡くなったばかりのカサヴェテスと、ハル・アシュビーに捧げられているんですよね。

宇野:あ、そうなんだ。『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』(1971年)とかを撮ったハル・アシュビーとカサヴェテスっていうのは、まさにあの時期の「あこがれのアメリカ映画」であって……しかも、観ようと思っても、日本では当時、あまり観ることができなったんだよね。しかも、ハル・アシュビーもカサヴェテスと同じ1929年生まれで、1988年に同じく59歳で亡くなっているという。

森:そうなんですよ。だから、ショーン・ペンはその当時、かなりカサヴェテスのことを理想のロールモデルとして意識していたと思うんですよね。同じく「俳優出身の監督」として出発しようという時に。一方で『カラーズ 天使の消えた街』(1988年)で共演したデニス・ホッパーという破天荒な父親的存在もいるけど、作家としてはむしろカサヴェテスのようにやればいいんだ、というような。そして何を隠そう、ショーン・ペンも1960年生まれ(笑)。だから、そのぐらいの世代に、とにかく熱狂的なファンが多いっていう。

宇野:ある時期までのショーン・ペンは、明確にカサヴェテスを引き継ごうとしていたよね。1991年の監督デビュー作『インディアン・ランナー』はもちろんのこと、少なくとも2007年の『イントゥ・ザ・ワイルド』までの監督作はどれも見事な作品だったし。

森:『インディアン・ランナー』は一世一代の傑作だと思いますよ。最初に良すぎるものをいきなり撮っちゃってびっくりしたくらいで……。あ、カサヴェテスの息子のニック・カサヴェテスが監督した『シーズ・ソー・ラヴリー』(1997年)の主演がショーン・ペンだったことを、今思い出しました(笑)。

宇野:そうそう。カサヴェテスが遺した脚本を、その息子が監督で映画化して、その主演をショーン・ペンがやるっていう、まさに後継者としてのムーブをずっとしていた。まあ、今では「ゼレンスキーをアカデミー賞に呼ばなきゃオスカー像溶かすぞおじさん」になっちゃったけど。

森:(笑)。あと、僕が面白いなって思ったのは……カサヴェテスって、ショーン・ペンの世代のみならず、アメリカでの評価が、ずっと高いんですよね。亡くなる前から、我々の感覚としては意外なくらいにメインストリームな場所でも評価されていて。『フェイシズ』なんかもアカデミー賞にノミネートされているんですよね。

>>【ザ・シネマメンバーズで観る】

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「インタビュー」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる