北野武が自作や自分自身を“解体” 現代アート的な取り組みとして鑑賞すべき『Broken Rage』

『Broken Rage』にみる北野武映画の本質

 世界中の多くの映画ファンから、常に新作を求められている北野武監督。2024年開催の第81回ヴェネチア国際映画祭アウト・オブ・コンペティション部門で上映され、その期待に応えるとともに、破壊的な内容で話題となったのが、62分の新作中編作品『Broken Rage』だ。そんな新作が、Prime Videoでついにリリースされた。

 実験的かつ、映画とコントの要素を含んだ内容への反応は、しかし賞賛ばかりではない。ここでは、賛否を生んだ本作『Broken Rage』の中身を振り返りながら作品を批評し、さらにこの作品が生み出された意味を検証しつつ、“北野武映画”全体への本質に迫っていきたいと思う。

 「Broken Rage」と名付けられたように、本作は北野作品『アウトレイジ』シリーズの雰囲気を想起させる、裏社会のバイオレンス映画として撮られている。北野武が例によって“ビートたけし”として主演し、今回は謎の人物「M」からの依頼を受けて暗殺を続けている闇の殺し屋“ねずみ”を演じる。

 この62分の映画は、ごく短い場面を除外すれば、2部構成になっているといえる。第1部では、殺し屋・ねずみが喫茶店で依頼の封筒を受け取って、その通りに暗殺をおこなっていく。しかし、浅野忠信、大森南朋演じる刑事コンビに目をつけられ、署に連行されることとなる。

 取り調べ室で暴力的な尋問を続ける刑事たちだったが、ねずみは何も明かそうとはしない。やがて彼らは、麻薬組織への潜入捜査官になってほしいという、意外な話をねずみに持ちかける。その提案に乗り、首尾よく組織の一員となったねずみは、麻薬の取り引きという、決定的な現場に居合わせる機会を得るのだった。

 北野作品のなかでは、やや新しさを感じる物語だが、全体的な雰囲気は、やはり北野作品のバイオレントなジャンルを、セルフオマージュしたような趣きがある。また、殺人や暴力を無表情でおこなうことのできる冷徹な主人公が、裏の権力や意外な人物に、いいように利用されているといった、北野作品に通底したパワーゲームの要素が、本作でも繰り返されることにも気づかされる。

 興味深いのは、第1部の内容のあらゆる部分が、過去の監督作に比べると、かなり軽快かつポップなものに感じられるという点だ。これはやはり、はじめからセルフオマージュとして撮られているがゆえなのだろう。つまり通常の北野作品とは、コンセプトの時点からもう異質のものだといえるのだ。また、本作において核となる、破壊的な内容である第2部のために、すでにパロディにしやすいバランスに仕上げられたのだとも考えられる。

 さて、問題の第2部である。ここでは、第1部で描かれたストーリーがもう一度、大筋で繰り返されることとなる。異なるのは、有能だったはずのねずみという主人公が、非常にドジで要領や運が悪いキャラクターに変更されているという点である。階段でいちいちつまずいて「イテテ」と言うように、まさにビートたけしがバラエティ番組などで演じているようなキャラクターの雰囲気で、スラップスティックな行動やリアクションを繰り返すのだ。

 そのことで、一つひとつの場面もコントのような内容に生まれ変わっている。浅野忠信演じる刑事が、広げた指の間にナイフを高速に突き立てていく「ナイフゲーム」をはじめ、ねずみが「やめろ、やめろ!」と必死に叫ぶシーンなど、もともと用意していたギャグがある一方で、ねずみがビートたけしの持ちネタ「コマネチ!」を唐突におこない、麻薬組織の若頭を演じる白竜が、演技プランに反して思わず笑ってしまっていることから分かるように、アドリブが見られる箇所もある。

 このあたりでよく否定的な反応が見られるのは、“純粋にギャグがつまらない”といったところだ。ユーモアのセンスは各人によってかなり異なるので、優れているのか劣っているのかを、一般化して断言することは、なかなか難しい。少なくとも私個人は、前述したような、いくつかのシーンで笑えてしまったので、本作がコメディ映画として全く成立していないというのは極端な指摘であると考えられる。

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