パナー・パナヒ、初長編監督作で描いた“イランの実情”を語る 父ジャファルとの経験も
ドラッグディーラーと刑事の攻防を描いた『ジャスト6.5 闘いの証』(2019年)、死刑制度の暗部をえぐる『悪は存在せず』(2020年)などが紹介され、日本でもイラン映画の多様性が知られつつある昨今。その決定版と言えるのが、パナー・パナヒ監督の記念すべき長編デビュー作『君は行く先を知らない』だ。彼は『白い風船』(1995年)や『人生タクシー』(2015年)、そして9月15日より日本公開を控えている『熊は、いない』(2022年)などで知られるイラン映画の巨匠、ジャファル・パナヒの息子である。
国境を目指してドライブする平凡な家族4人のミステリアスな道行きを、とびきりコミカルに、しかしその背後にある悲しみを常に意識させながら情感豊かに映し出していく傑作ロードムービーだ。圧倒的な自然美まで味方につけ、全編に溢れる才能を叩きつけた画面作りは、ポン・ジュノ登場時の衝撃に迫ると言っても過言ではない。パナー・パナヒ監督が初長編から実践した演出スタイルとは何か、大いに語ってもらった。
心の奥にあるものを具現化し、人々と共有するのが映画
ーー物語の着想はどこから?
パナー・パナヒ(以下、パナヒ):着想は特に複雑なものではなく、イラン社会に暮らす者ならば誰もが普通に思い浮かべるかもしれないアイデアです。イランの人々は、みんな行き止まりにいるような気分で生活しています。特に若い世代は……自分もそうでしたが、同じ絶望や悲しみを共有しているような感覚があり、これはとても一般的な感覚なのです。どこかへ行ってしまいたい、という気持ちは確実にあると思います。
ーー「誰もが共感しうる」ような、普遍性のある物語で監督デビューしたかったのでしょうか?
パナヒ:自分が作りたかったのは、まず自分が観客として好きになる映画です。自分が好きな映画になれば、周りにもその感覚は伝わると思うんです。誰かのために作るとか、何かの目的のために作るというのは自分はやりたくないし、今後もしないと思います。アーティストというのは、自らの心の奥にあるものを具現化して、人々と共有するものだと思うからです。そこには悲しみや痛み、社会問題など、様々な表現したいテーマがあるでしょう。それを人々が見て同じ感覚を共有する、それが映画だと思っています。
ーー『君は行く先を知らない』では、永遠の別れになるかもしれない家族の旅立ちという胸を締めつけるようなシチュエーションを、あえてコミカルな語り口で描いています。その理由は?
パナヒ:私自身の性格によるものだと思います。意識して計算づくで組み立てたストーリーや場面などはないので、無意識に自分のパーソナリティが表れているのかもしれません。私は誰かがすごく悲しい話をしているとき、ちょっとユーモアのある言葉を差し挟んで場を和ませようとする性格です。あるいは、みんながすごく真面目な話をしているとき、隅っこからおかしな発言をして笑いを誘ったりとか。だから、映画のなかで登場人物の感情がどんどん移り変わり、変化していくのは、すべて私自身の性格を反映したものだと言えます。もちろん観客を楽しませようという意識はありましたが、それ以外の感情の機微は、とてもパーソナルなものだと思います。
イラン映画は家族のリアルな実像を伝えていない
ーー家族同士の会話がとてもユーモラスで活き活きとしていて面白かったのですが、あのやりとりは最初から脚本に細かく書き込まれていたのですか? 現場でのアドリブなどはあったのでしょうか?
パナヒ:即興芝居というのは、かなりのベテラン俳優でないと成立させるのが難しいものです。もちろん、この映画のキャストも素晴らしい実力の持ち主でしたから、即興でやる必要があればどんな演出をすればいいだろうか、とも考えていました。ただし自分のやり方として、脚本にはすべてのセリフ、さらに仕草や目の動き、表情まで細かく書き込んでいました。俳優たちにとっては非常に難儀だったと思います(笑)。私がとにかく脚本通りにやってほしいと言うと「これではナチュラルな演技ができなくなってしまうよ」とも言われたのですが、結果的にはナチュラルな演技に見えていると思います。
ーーそれは今後も貫いていくであろう監督のスタイルなんですか?
パナヒ:自分は大学で映画を学んだのですが、学生時代に読んでいたのは海外作品の脚本でした。実際に自分で脚本を書くとき、伝統的なイラン映画の脚本の書き方も知らなかったし、どう書いていいのか皆目わからなかったんです。ただ、自分の考えを細かく書き込んでいれば、それを読む人が的確にキャラクターを知り、もっと細かく掘り下げることができるのではないかと考えたんです。たとえば、撮影監督に渡す脚本と、俳優に渡す脚本は、書いてある内容が違いました。俳優に渡した脚本には、先ほども言ったようにキャラクターの表情や仕草までが細かく書いてあり、撮影監督にはもっとシンプルな内容の脚本を渡しました。実際、現場に来た俳優たちは脚本を細部まで読み込んでくれて、キャラクターのことを非常に深く理解していました。だから、この書き方で合っていたんだと思っています。
ーー映像や俳優の芝居だけでなく、音のイメージなどについても書き込まれていたんでしょうか?
パナヒ:はい。音楽の使い方もすべて書いてありました。たとえば、俳優がAポイントからBポイントに移動するとき、どんな音楽が流れるのか、どこから曲が始まってどこで終わるのか、すべて書いてありました。既成曲を使ったシーンでも、現場で曲を流したわけではないのですが、芝居と歌がしっかりシンクロしていました。歌詞とともにキャラクターの表情や感情も書かれていたので、俳優がきちんと演出意図を把握したうえで演じ、とても自然な仕上がりになりました。
ーー次男役のラヤン・サルラクくんは、ほとんど動物的といえるほど自由奔放に見えますが、実はかなりプロフェッショナルな演技をされていたわけですか?
パナヒ:そうです。ラヤン・サルラクは本当に素晴らしい才能の持ち主です。プロの俳優としての意識をしっかり持ち合わせていて、監督である私の言葉も注意深く聞いてくれていました。たとえば、あるテイクを撮って「次のカットはこうしてみようか」と言うと、必ずそのように動いてくれる。前のカットとのつながりを自分で考えて作ってくれるのです。1日の撮影を終えてロケバスで帰るとき、私はいつも「彼と出会えてよかった」と実感していました。自分で脚本を書いたときから、映画撮影のことなどよく知らない6歳か7歳の幼児を現場に連れてきて、どうやって撮ったらいいんだと不安を抱えていました。でも、ラヤンという驚くべき才能に出会えて、私は本当に幸運でした。
ーーこの映画で描かれる、友達同士のような家族関係というのは、イラン映画ではあまり見たことがなかった気がします。現代のイラン社会では、普通によくある家族像なのでしょうか?
パナヒ:ここに登場する家族は、現代のイランではまったく普通の家族です。しかし、なぜ外国の人々がそういう家族像を見たことがないかというと、体制が国外に向けて発信しているイメージが、我々のリアルな姿ではないからです。自分と同世代、あるいはもっと若い世代のイラン国民は、自国の映画が自分たちのありのままの姿を映し出していないことに、強い不満を持っています。私自身もいろいろな国々を旅してきてわかったことですが、イランの家族も、ほかの国々の家族も、まったく変わりません。現在では多くの人がモダンな生活をしていて、友達同士のような家族も普通にいます。体制側によるプロパガンダと、現実の社会における市民の姿は、180度違うものなのです。
ーーあの家族にはモデルがいたりするのでしょうか?
パナヒ:特定のモデルはいません。もちろん自分の家族のイメージも重ねていますが、周りにいる友人たちの家族も、大体こんな感じです。特に若い親世代は、生まれたときからインターネット環境が存在している自分の子どもたちに後れを取らないように、子どもと一緒に学んだり、行動を共にしたりする生活を送っています。だからこういう親密な関係性も生まれてきて、次の新しい世代と一緒に前に進んでいこうとする親たちが非常に多いのです。