創作を禁じられたイランの映画監督がユーモアを描く理由 『人生タクシー』が与える勇気
ジャファル・パナヒ監督の作品が届くと、少し安堵するというか。ざわついていた心が、少しほっとっした気持ちになるのは自分だけだろうか?
多くの映画ファンが周知のとおり、彼は現代のイランを代表する映画監督。カンヌ国際映画祭でカメラ・ドール賞を受賞したデビュー作『白い風船』からはじまり、『チャドルと生きる』でヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞、『オフサイド・ガールズ』でベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞と、その作品は世界の映画祭で幾度も受賞し、国際的に高い評価を得てきた。ただ、政府への反体制的な活動を理由に裁判所の最終判決で、2010年より映画制作・脚本執筆・海外旅行・インタビューを20年禁じられ、違反すれば6年間の懲役を科される可能性があるとされている。現在、国内に軟禁され、創作活動が一切認められていない。
でも、活動が禁止されて以降も2011年の『これは映画ではない』、2013年の『閉ざされたカーテン』と彼は作品を発表し、世界へ届けてきた。まるでそれが自身の存在証明かのように。それが、安堵につながるのかもしれない。
ただ、そんな心配をよそに、映画制作を禁止されて以降、パナヒ監督から届く作品にネガティブな要素はほとんどない。こちらも驚くほどあっけらかんとして、むしろユーモアを全面に出している。悲劇のヒーローを気取ってもいいのに、そんなそぶりはみせない。苦境にいることは間違いないのに、それを微塵もかんじさせない。世界に痛烈なメッセージを問いかけたり、声高に怒りを叫ぶこともない(※そうできない事情があるかもしれないが)。あるのはユーモアだ。
振り返ると『これは映画ではない』は、映画制作を禁じられたからこそできる映画があるかもしれないという映画の可能性を突き詰めたような作品だった。そこには映画が作れないことで生まれる映画があるかもしれないことを信じて前を向くパナヒ監督がいた。次の『閉ざされたカーテン』は、あるようでないようにも映るストーリーに哀愁はあったが、撮影手法・演出・構図など、映画自体と戯れ遊んでいるような気配があった。いずれも、映画を作ることを禁止されたことを逆手にとってむしろ楽しんでいるかのようだった。
そして今回届けられた新作『人生タクシー』は、その2作をこえてユーモアがあふれる。彼の今置かれている現状からは想像できないほど映画は自由で窮屈なところがない。見てもらえばわかるが、自身の境遇までギャグにして笑い飛ばしているところがある。
その作品はいたってシンプルな構成だ。良い意味でなんのてらいもない。パナヒ監督自身がタクシーの運転手となって、テヘランの街中を車で流すと入れ替わり立ち替わりいろいろなお客がのってくる。しかも、用意周到の絶妙なタイミングで。そのお客さんを目的地におろして、新たなお客さんを乗せてと続けていくとどんどんと物語が転んでいって、あれよあれよという間にひとつのドラマが形成されていく。まるで筋書のないストーリーに見えて、起承転結がしっかりと用意された緻密な脚本を感じさせるものになっている。
手法もまた同様で、一見するとドキュメンタリーのようなその場に起きた一部始終をとりっぱなしで記録しているような風に見せながら、実は完全にシナリオ通り、フィクションのお手本になるような的確な構図のシーンとカット割で構成されている。ただ、そこに無駄はない。ひとつの言葉を一筆書きしたような清さ。それは“小細工などいらない、アイデアひとつで映画は作れる”とでも宣言しているかのようだ。
また、次々と乗り込んでくる乗客とのやりとりも絶妙としかいいようがない。そのひとつの言葉、対話からだけで、たとえばイランにおける女性の立場といった現代イランの今が滲み出る。その一方で、自身の置かれた立場をうまい具合に自虐ネタにして披露。ある男を登場させると“また映画を撮っているんですか”と言わせてみたり、海賊版DVDらしきものを売っている男を登場させると“この国ではこうしないと外国映画がみれない”と愚痴らせてみたりと、体制側へチクリとささやかな抵抗を試みる。