『窮鼠はチーズの夢を見る』が捉える恋愛の“本質” 人はなぜめんどくさいのに恋をするのか

『窮鼠』から学ぶ「人はなぜ恋をするのか」

 大倉忠義の静謐にして類稀なる吸引力。成田凌の罪深いほどの愛らしさ。そして、行定勲監督の神がかったコーディネート。『窮鼠はチーズの夢を見る』の映画的な美点を述べていけばキリがないが、ここでは恋愛をモチーフとした芸術としてのありようと着眼点について考えてみたい。そう、本作は優れた恋愛映画という次元にはとどまらない、恋愛の本質をいかにつかまえるか、この達成こそが素晴らしいからである。

 7年前、ふたりは大学生だった。後輩、今ヶ瀬渉は、先輩、大伴恭一に恋をしていた。だが、その想いは胸に秘めていた。7年後、ふたりは再会する。現在、今ヶ瀬は探偵。依頼を受け、浮気調査をすることになったが、その対象が恭一だった。先輩は不倫していた。後輩は、この事実を先輩の妻に伏せることと引き換えに、自分と関係することを求める。

 これは裏取引の交渉であり、危険な契約の持ち掛けであり、もっと言えば紛れもない恐喝でさえある。告白とは程遠い、後ろ暗い行為のはずだが、意外なほど深刻な雰囲気にはならない。妙な悲壮感も漂わない。もともとが大学の先輩後輩という間柄だからかもしれないし、同じ男性同士だからかもしれない。

 その夜、恭一は今ヶ瀬のキスを受け入れる。だが、その先は拒む。つまり、言いなりにはならない。屈服しない。恭一は異性愛者だから、男性同士の行為に抵抗感がある。だが、今ヶ瀬の想いそのものを拒否したわけではなかった。

 結果的に、かもしれないが、一夜限りの肉体関係にもつれ込まなかったから、ふたりのコミュニケーションはその後も続くことになる。恭一が屈服しなかったことは大きい。彼が今ヶ瀬にひれ伏さなかったから、ふたりの関係は取引にも契約にも恐喝にもならなかった。ならずに済んだ。もし、そうなっていたら、両者は別な形で破綻と崩壊を迎えていただろう。

 もちろん、恭一がそこまで考えていたわけではない。だが、彼がぎりぎりのところで、自分らしくあろうとしたことが、恭一と今ヶ瀬のつながりを固有のものにした。恭一は、別な理由で離婚。ひとり暮らしを始める。そこに今ヶ瀬が転がりこむ。もはや、後輩が先輩に強いる理由はない。しかし、恭一は受け入れる。あの夜、今ヶ瀬のキスを受け入れたように。

 通常ならここで、めでたしめでたし、となるかもしれない。が、ここからが映画の本筋だ。気がつけば、わたしたちは、この物語が、同性愛者から異性愛者へのアプローチだったことを、忘れている。もちろん、大倉忠義と成田凌の質の異なる美しさに魅了されているから、これが「男と男」の恋愛劇であることが念頭にはある。しかし、「男と男」であることがどうでもよくなる。「男と男」を、「男と女」に置き換えることもない。もっとシンプルに、「ひととひと」の恋愛の物語であることに気づく。

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