『窮鼠はチーズの夢を見る』は原作ファンも納得の出来 水城せとな作品のエッセンスがそこかしこに
水城せとなによる恋愛漫画の傑作『窮鼠はチーズの夢を見る』、続編にあたる『俎上の鯛は二度跳ねる』からなる『窮鼠』シリーズが、一篇の映画となった。結婚している大伴恭一(大倉忠義)は、ある日大学時代の同級生であり調査会社に勤務する今ヶ瀬渉(成田凌)に不倫の証拠を提示される。今ヶ瀬は片思いし続けていた大伴に対し、浮気を黙っている交換条件として身体を求め、そこから二人の関係が始まっていく。
原作の『窮鼠』シリーズは2004年に開始されて以来、今現在まで多くの読者に根強く支持されている漫画作品であり、今回が待望の実写化となった。シリーズスタートと同時期にあたる2004年に製作された純愛映画『世界の中心で、愛をさけぶ』や、島本理生原作小説の『ナラタージュ』(2017年)など、恋愛映画の名手でもある行定勲が監督を務める。行定は『リバーズ・エッジ』(2018年)でも漫画原作を手掛けており、同作では漫画的な表現に近づけるためスタンダードサイズを採用している。本作『窮鼠』が同じ漫画原作でありながらもシネマスコープサイズで撮られた理由は、一つは部屋の空間をより広く捉えるためである。大伴と今ヶ瀬の居る部屋は、二人にとっては唯一人目を気にせず過ごせる大切な場所にほかならない。山崎賢人主演による行定のもう一つの新作映画『劇場』もまた、その意味において同じく部屋の映画でもあると言えるだろう。劇団の脚本家兼演出家のくすぶる男は、住みついた女の家をまるで安息の地のようにする。『劇場』が黄昏時の橙色に包み込まれた部屋の映画であるとすれば、『窮鼠』は真夜中の蒼色に濡れた部屋の映画である。両作は同じ部屋の映画でありながら、その美質においては好対照をなしている。
映画化に際し、優柔不断で来るもの拒まずの「流され侍」こと大伴役には関ジャニ∞の大倉忠義、ゲイで執着心の人一倍強い一途な今ヶ瀬役には数々の映画に出演を続ける成田凌が抜擢された。本作のプレス資料によれば、大伴には「恋愛でじたばたもがくより大切なことが 人生にはいくらでもあるだろ。お互いもうそういう年だろ」という台詞があるため、年齢などが考慮されてこのキャスティングになったという。しかし本作を観れば、大伴は大倉でなければ、今ヶ瀬は成田でなければいけなかったのだとひとたび確信させられる。大倉は「流され侍」そのものであり、ゆるやかに飛ばされていきそうな軽やかさと、あらゆる感情に芽生えていく余白を感じさせる独特な佇まいで、大伴を体現して見せる。大倉の存在感が抱え込む余白が、ラストショットの空間的な余白に接続することによって、大伴という人物にとっての「余白」の重要性もまた一層高められる。一方、成田は常に小刻みに震えているような脆さと、狂気を内に秘めているような抑制された芝居で、今ヶ瀬の張り詰めた両義性を表現して見せる。成田は大袈裟な身振りの代わりに、微細な表情によって心が揺れ動く音を奏でる。そしてこの二人が同じ画面にいる時間には、常に刹那的な色香が漂う。彼らがそれぞれに放つ色気は、大人向けとして描かれた恋愛漫画の世界観に相応わしいように思われる。
そんな『窮鼠』シリーズは、水城の担当編集者による「激しくエロく」という言葉から生まれた。大人向けというだけあり、性行為も赤裸々に描写されているため、生々しく官能的な魅力を携える本作の映画化作品が控えめな性描写に甘んじてしまっていたとすれば、おそらく原作の持つ重要な要素が損なわれてしまいかねなかっただろう。しかし、本作では性描写においても妥協することはない。原作において、ベッドの上や部屋の中で臆することなくあらわになる男二人の全裸姿は、男同士の気のおけなさなどをことさら強調していたものだが、映画においてもさらけだされた二人の男の裸体は画面を動きまわり、物語のエッセンスにも関わる重要な身体表現を担っている。