時代によって変化してきたジョーカー像 「バットマン」映画からの変遷を辿る
繰り返し映像化されてきた、アメリカンコミックの代表格である「バットマン」。近年のアメコミ実写映画化ブームによって、関連する映画が次々に製作、公開されている状況だ。
なかでも、バットマンの宿敵を主人公にした『ジョーカー』(2019年)は、社会現象といえる大ヒットを記録した成功作だ。バットマン映画最高の興行収入を獲得した作品といえば、約250億円という巨額の製作費をかけた、クリストファー・ノーラン監督の超大作『ダークナイト ライジング』(2012年)だが、『ジョーカー』は、なんと約50億円の製作費で、同規模の興行的な結果を出しているのである。
思えば、『ダークナイト ライジング』の成功の礎となったのも、ジョーカーが登場する『ダークナイト』(2008年)からだった。そう考えると、バットマン映画においてジョーカーの存在がどれだけ大きいのかを再確認させられる。しかし、なぜヴィラン(悪役)に過ぎないジョーカーが、ここまで人の心を惹きつけるのだろうか。
ここでは、そんなジョーカーが映像作品でどのように描かれ、変遷していったのかを振り返りながら、“ジョーカー”とは一体何なのかを考えていきたい。
コミックや映像作品、ゲームなど、いろいろなクリエイターによって、ジョーカーのイメージはかたちづくられてきた。その度に設定は微妙に変化しているが、基本となるのは、ピエロのような白い顔に、緑色の髪の毛、紫色のスーツを着た派手な姿であり、異常な精神状態を持った犯罪者であるということだ。バットマンに敗れ逮捕されると、他のヴィランとともに、精神病院アーカム・アサイラムに収容されるのが常となっている。
バットマンの映像化作品は、40年代から製作されていたが、ジョーカー自体は、1966年のTVシリーズと、映画版に登場。このシリーズは、60年代テイストあふれるサイケデリックかつポップな雰囲気と、コメディタッチの内容が好評を博し、とくに本国アメリカで「バットマン」といえば、この頃のイメージが根強く残っている。
ベテラン俳優のシーザー・ロメロが、ここで演じたジョーカーは、顔こそ生々しい迫力があって恐いものの、陽気でイタズラ好きな面が強調された、笑いの絶えない楽しい姿を見せている。バットマンと仲良くサーフィン対決をするエピソードが象徴するように、コミック原作のTVシリーズという性質上、子どもが楽しく見られるような親しみの持てるキャラクターとしての面が強調されている。とはいえ、とくにアメリカでは認知度の高さから、このイメージが後世のジョーカー像を考える上での基準になっていることは確かだろう。
ティム・バートン監督による映画『バットマン』(1989年)、そして『バットマン リターンズ』(1992年)では、そんなコミカルな要素を部分的に引き継ぎながらも、大人の鑑賞をも想定した、監督の作家性である“孤独なマイノリティの哀しみ”が影を落とす、シリアスさが加わるシリーズとなった。
そのシリーズ中で、マイケル・キートンがバットマンを演じ、ジョーカーが登場する第1作の『バットマン』では、狂気の男を演じてきた名優ジャック・ニコルソン演じるマフィアの男が、ジョーカーになっていくまでの過程が描かれる。ヴィランの事情に迫り、ヴィランにもヴィランとしての奥行きがあることを示し、バットマン映画に複雑な要素を加えることになったのだ。
このシリーズは、先日亡くなったジョエル・シュマッカー監督が引き継ぎ、ヴァル・キルマーがバットマンを演じた『バットマン フォーエヴァー』(1995年)、ジョージ・クルーニーがバットマンを演じた『バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲』(1997年)が続けて製作されている。
この2作では、TVシリーズの楽しいバットマンのイメージが復活し、ヴィランに豪華キャストが集結した。とくに後者は、往年の楽しさが復活していると評価される一方で、バットマンのツルンとしたヒップを強調するシーンや、ユマ・サーマン演じるヴィラン、ポイズン・アイビーが、マッチョな半裸の男たちに持ち上げられお神輿されるようなシーンがあるなど、バットマン作品の熱心なファンの中には、おふざけの度が過ぎていると憤慨した観客もいたようだ。