驚異の手法で映し出す、中国社会への「警鐘」 『ロングデイズ・ジャーニー』のノスタルジーと現代性

宇野維正の『ロングデイズ・ジャーニー』評

 全編をワンシークエンスショットで見せてしまう(ちなみにあの作品をワンカット、もしくは擬似ワンカットと呼ぶのは厳密に言うと間違いだ)現在公開中のサム・メンデス監督の『1917 命をかけた伝令』も相当イカれた作品だが、イカれてる度で言うならビー・ガン監督の『ロングデイズ・ジャーニー この世の涯てへ』はさらにその上をいく。なにしろ、全編138分のこの作品は2Dの映画として始まって、70分ちょっと経ったちょうど中盤を境に、終盤の約60分は3D映画へとトランスフォームするのだ。しかも、その約60分はワンシークエンスショット(言われなければわからないが、実際には2回カットの接続点があるという)で撮られている。作品の途中に3Dグラスをかけるタイミングをどうやって知るのか不思議に思うだろうが、大丈夫、そのタイミングは劇中で主人公の男が映画館の席に座って3Dグラスをかけて、そこでようやく作品のタイトルがスクリーンに映されることでごく自然に指示される。いや、自然といっても、まったくもってイカれた作品であることには変わりはないが。

 ロングショットの多用と詩的なナラティブはアンドレイ・タルコフスキーの作品を、湿度の高い映像と登場人物の生理とシンクロしたような有機的なカメラの動きはウォン・カーウァイの作品を思い起こしたりもするが、そうしたいくつかの映画的レファレンスも完全に自身のフィルターを通して、ビー・ガン監督は長編2作目となる本作『ロングデイズ・ジャーニー』で現代の映画界において孤高と呼ぶに値する映画言語を確立している。ちなみに今回、その前作にして長編デビュー作となった『凱里ブルース』の日本公開も決定しているが、同作も途中で3Dにこそならないものの後半の約40分はワンシークエンス・ショットとして撮られている。伊達や酔狂ではなく、ビー・ガン監督は毅然とした態度でその手法を選択し継続しているわけだ。

 ビー・ガン監督は1989年生まれ、現在30歳。前作『凱里ブルース』と今作『ロングデイズ・ジャーニー』の舞台でもある中国の南西部内陸に位置する貴州省凱里市出身。作品の時代背景(作中で明示されてはいないが、スマートフォンの普及前であることからも10年以上前であることはわかる)も考慮しなくてはいけないが、その土地への強い執着からは、高層ビル群がそびえ立つ現代中国の大都市ではなく、かつての中国地方都市の風景への愛憎半ばする強いノスタルジーを抱えていることが伝わってくる。それは風景だけでなく、劇中で突然流れ出す日本の流行歌(中島みゆき「アザミ嬢のララバイ」)やキャラクター造形にも表れていて、例えば主人公の男は女性に対して時に驚くほど粗暴な振る舞いをする。もちろん、それをただ無批判に映像化しているわけではないのは明らかだが。

 そうした「時代の変化に取り残された風景や人々」というモチーフは、(日本で一般公開される中国映画が限定的なのでサンプルが少なくて恐縮だが)例えばディアオ・イーナン監督『薄氷の殺人』(2014年)やフー・ボー監督『象は静かに座っている』(2018年)といった近年強く記憶に刻まれてきた中国映画の傑作にも共通するものだった。興味深いのは、製作時点で40代だったディアオ・イーナン監督はともかく、ビー・ガン監督もフー・ボー監督も20代の若さでそのようなモチーフに取り憑かれているように見えることだ。中国の急激な近代化の裏側で、若い作家のアート作品から発せられている「警鐘」や「悲鳴」について、我々はもっと注意深く耳を傾けるべきなのかもしれない(フー・ボー監督は『象は静かに座っている』完成直後に自死してしまったが)。

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