『天気の子』が映すエンターテインメント産業の功罪 新海誠監督が選択したラストの意図を考える

『天気の子』ラストシーンの意図を考える

 ※本記事は『天気の子』のネタバレを含みます。

 無学なりに本を読んでいると「ハレとケ」という民俗学の言葉にしばしば出会う。柳田國男によって見出された概念で、ハレとは儀式や祭の特別な日、ケとは日常を意味する、らしい。歌舞音曲、芸能は言うまでもなくハレに属するもので、つまり今日、政治や経済を動かすまでに成長したエンターテインメント産業はいわば「ハレ」が産業化された姿であるわけだ。

  新海誠監督の最新作劇場アニメ映画『天気の子』では、どんな天気も局地的に「ハレ」に変えることのできる少女、100%の晴れ女がヒロインとして登場する。映画は序盤に地方から家出してきた少年が東京で仕事にありつけず、あっという間に貧困化していく描写の後にヒロインを登場させ、この社会の中で彼女が瞬く間に人々から必要とされ、経済的、社会的に成功していく様子を描く。雨の中で描かれる無力な少年の貧困と、新海誠作品が得意とする、息をのむほど美しい自然描写で描かれる晴天の中の少女の鮮明な対比の中、少女はまるでアイドルがスターダムに駆け上がるように、美しい青空を求めるこの社会から求められ、それに答えていく。それは爽快なサクセスストーリーのように見える。

 しかしこの映画が少女のサクセスストーリーではなく、ある種の悲劇であることはすぐに明かされる。天候を変え、晴天をもたらすたびに、少女の体は蝕まれ、透き通るように概念化され、生身の身体性を失っていく。それはアニメやアイドルをはじめとするエンターテインメント産業のほぼ完璧な比喩に見える。「それは好きの搾取です」というのはドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS系)のクライマックス前の名台詞だが、ヒロインが“晴天ビジネス”を始める前に、ヤクザによって性風俗的なアルバイトに誘われかけていることを暗に示す描写、そして18歳になると年齢を偽っていたが実は主人公より年下の未成年であったことが明かされる結末など、『天気の子』は明らかに意図してエンターテインメント産業と少女の搾取をそのモチーフに組み込んでいる。

 世界的にとてつもない商業的成功を収めた『君の名は。』は、その規模に比例するかのように多くの批判にさらされた。是枝裕和監督からの批判(参考:邦画大ヒットの年に是枝裕和監督が「日本映画への危機感」を抱く理由)があり、SNSでは作品の男女の性の描き方についての批判が飛び交った。それは『君の名は。』の描写や構造が飛び抜けて問題だったというより、その巨大なヒットによって日本アニメの象徴を背負ったかのような批判に思えた。新海誠監督が村上春樹のファンであることはよく知られているが、10万部クラスの作家であった村上春樹が『ノルウェイの森』で突然300万部という巨大なヒットを記録し、その反動として多くの批判や敵意にさらされるようになった現象にも似ているように感じる(村上春樹はエッセイで『ノルウェイの森』がヒットした時、多くの人に憎まれ嫌われているように感じたと書いている)。

 『天気の子』について新海誠監督は「『君の名は。』で怒った人をもっと怒らせようと思った」という挑発的なコメントをメディア(参考:「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」――新海誠が新作に込めた覚悟)で語っているが、僕にはむしろいくつかの批判に対しては誠実に耳を傾けているように思えた。『君の名は。』でアニメのお約束のように繰り出されたセクシャルなくすぐり描写は控えられているし(僕もいくらなんでもあんなに何回もおっぱいを確認しなくてもよかったと思う)、「東京のラブストーリーのために地方の災害を利用した」という批判についても、『天気の子』で東京を完全に舞台に絞ることで答えているように見える。神道に対して無批判に肯定しているという批判もあったが、今回の『天気の子』では同じく神社や巫女をモチーフにしながら、その『人柱』という人身御供的なあり方に対して少年が抵抗して行く構造になっている。それは過去から現代にも通じる日本批判にもなりえていると思う。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる