『生きてるだけで、愛。』は“愛と理解の両立”を問いかける 趣里と菅田将暉が通じ合う一瞬の尊さ
ところで先に触れたように、寧子はひょんなことから、とあるカフェバーで働くこととなる。彼女の性質を知った上で受け入れ、理解を示そうとする店の人々に、寧子は「やれるかも」と手応えを感じる。そんな自身の感情の変化を仄かに感じ、津奈木に報告するわけであるが、いつも飢えている彼女を満足させる返事など、この淡白な男には期待できない。
ここで本作が原作小説とは違い、寧子だけでなく、津奈木側にも寄り添う視点を取り入れているということが大きな意味を持ってくる。彼もまた、他人の無理解にさらされている人なのである。たびたび挿入される寧子の知らぬ津奈木の姿によって、彼も周囲からの理解を得られないでいる人間だというのが分かるのだ。
寧子が働くカフェバーの人々は、彼女が遅刻をしようが、無断欠勤しようが理解を示そうとする。“大丈夫”、“なんとかなる”、“家族みたいなものだよ”……寧子に向けられる言葉の数々は、押し付けがましい善意のようにも思えるが、それに対してポロポロと涙をこぼす彼女はどうやら安心しているようである。つまり、はっきりとした「理解」が欲しかったのだろう。
しかし、身もふたもない問いかけになるが、彼らの善意に「愛」はあったのだろうか。理解したつもりになるのは容易いが、まったくの他人を本当に理解しようと努めることは難しい。鴻上尚史の戯曲『ピルグリム』にある、“愛のない理解よりも、愛のある無理解のほうがいい”というセリフが頭をよぎる。「愛」と「理解」の両立は不可能なのだろうか。
本作における「理解」とは、“相手の中に自分を見つけること”のように思える。物語のクライマックスで、寧子が津奈木の中に自分と近いものを見つけたとき、ふたりは一瞬だけれども「理解」を交わし合う。そしてそれを介在させる視線と声からは、ある切実な感情が溢れているのだが、それこそまさに、「愛」だと呼んでもいいのではないだろうか。そんな尊い一瞬が、この映画には収められている。
■折田侑駿
映画ライター。1990年生まれ。オムニバス長編映画『スクラップスクラッパー』などに役者として出演。最も好きな監督は、増村保造。
■公開情報
『生きてるだけで、愛。』
新宿ピカデリーほかにて公開中
出演:趣里、菅田将暉、田中哲司、西田尚美、松重豊、石橋静河、織田梨沙、仲里依紗
原作:本谷有希子『生きてるだけで、愛。』(新潮文庫刊)
監督・脚本:関根光才
製作幹事 :ハピネット、スタイルジャム
配給:クロックワークス
(c)2018『生きてるだけで、愛。』製作委員会
公式サイト:http://ikiai.jp