小説の“翻案”、もしくは映画としての“再構築”? 『ハナレイ・ベイ』が描く「距離」と「触れる」

『ハナレイ・ベイ』の「距離」と「触れる」

 ここハナレイ湾でたった一人の息子を失ったサチ(吉田羊)は、ハワイ・カウアイ島というバカンスの地には不似合いに見える。眩しく降り注ぐ陽光とは対照的に、彼女の表情は冷たく、どこか感情というものを欠いているように思えるのだ。それから10年間、彼女は毎年同じ時期になるとここで過ごすのであるーーこれが村上春樹による短編小説の映画化作品『ハナレイ・ベイ』の物語のあらましだ。40ページほどの短い小説が、『トイレのピエタ』などの松永大司の手によって、いつまでも忘れられない97分の長編映画に仕上げられている。

 小説版の出だしはこうだ。

“サチの息子は十九歳のときに、ハナレイ湾(ベイ)で大きな鮫に襲われて死んだ。”

 これが映画版では、

“息子は、ここハナレイ・ベイで大きな鮫に襲われて死んだ。”

 となっている。似てはいるが、前者が第三者の視点で語られているのに対し、後者は主人公の主観で語られている。文字で記された情報と、当事者の声で語られる事実とでは、その感触は大きく異なるだろう。俯瞰的に語られていた物語が映画化に際して見事に換骨奪胎され、主人公・サチの視点に寄り添い、彼女とともに過ごす97分の中で、やがて私たちは彼女との同化へと誘われ、濃度の高いエモーションを味わうこととなるのだ。

 短編小説の長編映画化とあって、原作から改変された点はいくつも見受けられるのだが、やはり大きな点は、サチと彼女の死んだ息子・タカシ(佐野玲於)、そしてサチがハナレイで出会う2人組の若い日本人サーファー・高橋(村上虹郎)、三宅(佐藤魁)との関係をよりじっくり描いている点だ。タカシのいた“過去”と、タカシのいない“現在”。そして、彼の死から10年が経過したときのハナレイでのサチと若者たちとの“触れ合い”が、よりフォーカスされている。村上作品の大きな特徴である“春樹調”なセリフ回しはなく(そもそもこの原作自体、それが控えめであるように思う)、どこかアイロニカルな調子のある物語はあくまでベースであり、人々の触れ合いにウエイトが置かれている点が本作の肝となっているのだ。そういった意味では小説の映画化というよりも、小説の“翻案”、あるいは映画としての“再構築”といった印象が強い。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる