濱口竜介が『シネマトグラフ覚書』を写経する理由「ブレッソンの思考自体に無視していいものは一つもない」

映画監督の濱口竜介が、自身の「バイブル」であり写経するほど読み込んできたという、ロベール・ブレッソンの名著『シネマトグラフ覚書』を深く紐解く。商業映画での実務や「撮る/撮られる」ことが日常化した現代の映像環境を踏まえ、独自の「本読み」論、カメラが顔を「貫通する」という解釈、ブレッソンの原理原則を語った。最新作『急に具合が悪くなる』の背景にある強靭な思考と映画の真理に迫る。
ブレッソンが残した思考の原理

――2024年刊行のご著書『他なる映画と 2』(インスクリプト)では「ある覚書についての覚書――ロベール・ブレッソンの方法」と題して、大々的に論じておられるロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書』(筑摩書房)ですが、濱口さんが最初に読んだ時期はいつですか?
濱口竜介(以下、濱口):20代後半の頃、2006年に復刊された時に買いました。ずっと噂にだけ聞いていたあの本がついに、という興奮で本を開いたことを覚えています。
――僕は最初に本書を開いた時、「こりゃ自分には無理だ」と思いました(笑)。映画を実際に作っていないと体感できないことが書かれているな、と。
濱口:それは確かにそうだと思います。サブタイトルにもありますが、原則としてどこまでも「映画監督のノート」なんですよね。自分も最初の印象としては、分かるところは分かるけれど、分からないところは本当に分からない、という感じでした。
――最初に読まれた時、濱口さんはもう映画を撮っていましたよね。
濱口:はい、20代初めには大学の映研で撮っていましたから。『シネマトグラフ覚書』を手に取ったのは、東京藝大の大学院に在籍していた頃でした。
――2008年には藝大映像研究科の修了作品として、長編『PASSION』を撮られています。最初の頃に「分かる」と思ったところは、例えばどこですか?
濱口:「二つの死と三つの誕生について」が一番分かりやすく感じたものの一つですね。18ページの一節です。
「私の映画はまず最初に私の頭の中で生まれ、紙の上で死ぬ。それが甦るのは、私の用いる生きた人物や現実のオブジェによってである。これら人物やオブジェはフィルムの上で殺されてしまうが、或る種の秩序の中に置かれスクリーンの上に映写されるとき、まるで水に浸した水中花のように生を取り戻す。」
頭のなかでうごめいていた構想は、一度紙で定型化されてその躍動を失う。でも、そうしないと集団で撮影することは叶わない。書かれたテキストは演じるーーとはブレッソンは呼ばないわけですがーー人やモノの形で撮影現場で甦る。だけど、フィルムに定着することで一旦可塑性が十分に高い状態は終わる。それが再びうごめきを取り戻すのが、再構成されたうえで、映写された時である……。これはよく言う「映画は観客の中で完成する」ということかな、と当初は思っていました。でも、今改めて読むと、一つの映画を生きた状態に置くうえで「或る種の秩序」をつくりあげるよう再構成する、それができるように撮影もすることが肝要なんだ、とブレッソンが切実に考えていたことを感じます。最も簡単に思えたものでもやっぱり、理解していたわけではまったくなかったな、と改めて思います。
――逆に、腹に落ちなかったところは?
濱口:最初は8割方そうだったと思いますし、わかったと思っても誤解していたなと思うことも多いです。俗流のブレッソン理解をなぞるように「演劇と映画は敵同士なんだ」と思った記憶があります。ただ、繰り返し読むうちに「混ぜるな危険」というのはまったく確かだとしても、演劇そのものが否定されているわけではないとも分かってきました。むしろブレッソンは実際の演劇には、確かな魅力を感じている。
――『急に具合が悪くなる』もそうですが、2012年の『親密さ』から、濱口映画には入れ子構造の中に演劇パートが導入されていきますよね。ブレッソンは「モデル/俳優」という、一見対立する概念を打ち出しています。「モデル」とはカメラの前に立つことに特化した身体。ただ在ること、という「自然」の状態の被写体であり、素材を指します。「俳優」とは意図された演技で、あたかも現実のように見せかける存在。
濱口:はい。ブレッソンが嫌悪するのはあくまで「撮影された演劇」です。それを<シネマ>と呼んで、自分が目指した映画群――リュミエール兄弟由来の言葉である<シネマトグラフ>とは厳密に区別しました。
ただ私の場合は、やっちゃいけないと言われるほどにやりたくなるっていう癖があるんだと思います。結果として、「いや、<シネマ>も場合によっては、相当にいいもんですよ」とは思ってますね。確かに映画の中で演劇を扱ったり、ドキュメンタリーをつくったり、職業俳優とも非職業俳優とも仕事をする中で、どうやらブレッソンの言っていることは全部真剣に捉えるべきものだと思うようになりました。オカルト的に思える部分まで含めて、この人は全部マジなんだ、と(笑)。ただ、職業俳優にはそれ自体の魅力は確実にあるとも言っておきたい。一方で、非職業俳優が、カメラの前でより輝き得る存在である、というのもまったく確かだとも思います。そうした全部を踏まえて、さて自分は実際どうするか?ということですね。
――聖書ではないですが、とりあえずここには真実が書かれていると。<シネマトグラフ>を標榜するくらいですから、ゴリゴリの映画原理論ですよね。
濱口:いったいカメラを被写体に向けるという行為は何なのか。映画制作にまつわる根本の原理原則は何か、をブレッソンは徹底して思考していた。それは即ち、ブレッソンもまた、すべての現場で常にうまくいっていたわけではないからだと思います。ブレッソンが〈シネマ〉を忌み嫌ったのは、おそらくは映画撮影という行為自体に、常に〈シネマ〉=演劇の撮影行為へと転んでしまうリスクが含まれていることへの警戒心からだと思います。それにぶち当たった試行錯誤の結果が、これら四〇〇余りの断章になっている。映画監督の誰もが真似する必要はまったくないと思っていますが、ブレッソンの思考自体に無視していいものは一つもないとは思います。
誰もが演技する現代での『覚書』の再解釈

――『他なる映画と 2』で、濱口さんが『シネマトグラフ覚書』を「脱-神秘/脱-オカルト」的に読むと書いていたのが面白くて。確かに原理論って“信じるしかないオカルティズム”に傾いていくようなところはある。
濱口:ええ、そうですよね。断章による記述なので一つ一つは謎めいていますが、共通するキーワードが飛び飛びに出てくる。それらをつなぐと実は筋が通っている。それどころか、むしろ驚くほど首尾一貫している。かなり統一された考え方を持っているのだけれど、それを論理として構築してしまうと、定型化されて、実践にとって意味のないものになってしまう。それを避けているのだと思います。むしろこうして断章として「再構成」をすることによって、書物自体が永遠にうごめき、変化をしていくようなそういう本になっています。これは、ブレッソンの映画を見る体験とものすごく近い。私も読みながら撮る、を繰り返しているうちに、どこかオカルト的と捉えて読んでいた部分も「あ、これはまさに本当のことだ」と感じて、自分の中での重要度もどんどん上がっていきました。
――『急に具合が悪くなる』の核心的な主題とも言える「魂」は、まさにブレッソン用語ですよね。濱口さんの中で、特に『シネマトグラフ覚書』が重要になったのはいつ頃ですか?
濱口:おそらく『ハッピーアワー』(2015年)以降ですね。非職業俳優と仕事をし、『寝ても覚めても』(2018年)で職業俳優と仕事をし、今後自分がどう仕事をしていくのか、ということを考えていたときに、よりどころになるかもと思って、それまで以上に時間をかけて読むようになりました。そもそも、分量的にはかなり読みやすいので、映画本としても繰り返し読むのに向いているんですね。その後、『ドライブ・マイ・カー』(2021年)のプロモーションでほとほと疲れ果てたあとに(笑)、改めて自分の軸を確かめるため読み込んで、それをまとめたのが『他なる映画と 2』に載せたテキストです。
――三宅唱監督、映画研究者・三浦哲哉さんとの語らいをまとめた2025年刊行の書籍『演出をさがして 映画の勉強会』(フィルムアート社)では、「写経しながら読んでる」(P53)と濱口さんは告白されています。しかもフランス語の原文と照らし合わせながらタイプするという……この「写経」はいつから始めたんですか?
濱口:写経をちょこちょこと始めたのは『寝ても覚めても』のあとですね。
――いわゆる商業映画デビューされたあとのタイミングということですね。
濱口:はい。そこで考えたのは……、『ハッピーアワー』をやって非職業俳優の魅力というのはよくわかっていました。しかしこれからは多分、自分は職業俳優と基本的に自分は仕事をしなくてはならないだろう、ということを思っていたからだと思います。
それは21世紀に入って映像の条件が変わってしまったからです。デジタルで撮られたあらゆる映像は、容易にYouTubeなどのインターネットで見られるようになった。あるときに、自分の写った映像が急に世界中にさらされて、文脈を何も共有していない人たちから、ありとあらゆる心無いことを言われる可能性が劇的に高まった。ドキュメンタリーを撮るときも、『ハッピーアワー』も撮るときも出てもらう人には、そのリスクをできる限り説明したつもりではいます。でも、非職業俳優の人たちは、そもそも自分が写った映像がそこまで広がる、多くの人が見るものになる、ということをリアルには考えない印象がありました。そのとき究極的には、リスクを想像しきれないのではないか。その点、職業俳優は、自分のした行為の記録映像が、これからも将来にわたってありとあらゆる人に見られ続ける可能性がある、という点に関してはあらかじめ合意が取れている存在です。なので、今後仕事をしていくとしたら、その人たちとになるだろう。だとすると、どうやっていくかを考えないといけない、と思うようになった。倒錯していますけど、そのために無視してはならないものとして『シネマトグラフ覚書』を読むことから始めたということだと思います。
――まさに「撮る/撮られる」ことが日常化した現在の映像環境だと、非職業俳優という概念もブレッソンの時代とはまったく違ってきますよね。
濱口:そうですね。現代はもはや誰もがカメラを向けられて、演技をした経験があるでしょう。誰もが映像とは何かを知っている。誰もが「モデル」よりは「俳優」に近い状態とも言える。そうなると、そもそもブレッソンの考えるような純粋なモデルとの共同作業としての<シネマトグラフ>は、もはや不可能なのかもしれないですよね。濁ったものがすべて<シネマ>だと思えば、我々はもはや<シネマ>でやっていくしかないのかもしれない。
――濁りについて、濱口さんは「演技とは他者を演じることだが、自分自身の残滓と他者が二重に濁った形で表れる」といったことを書かれていましたね(『他なる映画と 2』P261、要約)。
濱口:『シネマトグラフ覚書』でいうと、41ページの次の一節ですね。
「X、俳優、その不確実なことは重なりあった二つの色調からなる不確実な色彩のようだ。」
「俳優」という演技する存在は、自分自身であることからは決して逃れられないわけです。ある種、逆転の発想ですが、だったら俳優も十分に面白いじゃないかと思ってはいるのが現在です。
ブレッソンはもともと画家なので、混ざった色彩の濁りの比喩で語っていますが、実際のところ、不確実な色彩が絵画においても、一律にダメかと言えば、そんなことはまったくない。ともあれこの本を読むうえで、一番避けるべきことは、定型的な解釈に陥ることだと思います。何度も読み直していくと、本当にプリズムで一つの光が変化していくみたいに、色々な捉え方ができます。
――本当に敬虔な信者が自分の信仰に悩みながら、聖書を繰り返し再解釈しているみたいですね。
濱口:そうなんですよ(笑)。だから最もじっくり読む方法として、写経に入ったところがあります。似た概念が飛び飛びに出てくるのだけど、そのつながりはおそらく意識的に切られている。それを自分で再構成するために原文も含めて写経しました。日本語だけだと、訳語は一緒でも、原語が違うことやその逆もあるので。そのことで、例えば「声」などで検索すると、ブレッソンの声についての思考を辿れるようになる。でも、それ以上に、その原理的思考を自分の身体にインストールするような作業でもあります。オカルト的と呼んだのは例えば「テレパシー」「予知能力」などの言葉遣いで、これらは最初は何を言っているのかと思いましたが、だんだんブレッソンの思考が一つ一つ、網の目のようにつながっていることが分かってくるんですよね。
本読みという「門」をくぐり抜けて
――本書を撮影現場で撮影クルー、特に俳優チームと共有することはありますか? 濱口さんの『不気味なものの肌に触れる』(2013年)に主演された染谷将太さんが、『シネマトグラフ覚書』をご自身のバイブルとしてよく挙げられていましたが。
濱口:現場で共有することはないですね。染谷将太さんや西島秀俊さんは読んでいましたが、彼らは自分で『シネマトグラフ覚書』にたどり着いた人なので。読まされたら俳優は困るでしょうし(笑)、私自身から勧めてはいないです。
ただそれに近いパターンとして、『急に具合が悪くなる』のヴィルジニー・エフィラさんには、ブレッソンの『ジャンヌ・ダルク裁判』(1962年)を観てくださいとは言いました。
――『ジャンヌ・ダルク裁判』は、『シネマトグラフ覚書』の中で唯一タイトルが言及されるブレッソン自身の作品ですね。
濱口:はい。ブレッソン自身が、モデルとの関わりが理想的に上手くいったと感じている作品が『ジャンヌ・ダルク裁判』なのではないかと、私は想像しています。
ブレッソンが言っていることは、実は別に特殊なことではない。映画を撮っていれば必ず突き当たることについての試行錯誤が書かれている。彼は「演出」という言葉を使いません。セリフや仕草はそれらをモデルに課すことで、彼らに問いかける手段です。それを踏まえて、『ジャンヌ・ダルク裁判』でジャンヌを演じるフロランス・ドゥレを見ていると、セリフ=テキストが演者の身体にどう作用し、いかなる仕草を引き出すか……が見えてきます。ブレッソンの志向するテキストと身体の関係の理想を体現した「モデル」がフロランス・ドゥレという気がしていて、ヴィルジニーさんには、テキストを口にすることがモデルの身体にどう働きかけるのか、ということを知って欲しくて、見せたように思います。と同時に自分がどういうところを見ている人間かをわかっておいて欲しかった、ということもあります。
――セリフ=テキストは俳優の内側から出てきたものではなく、外側から与えられるもの。ジャンヌ・ダルクは“神の声”という外部からのテキストを受信して、それを自分の声として肉体化していった存在である。『ジャンヌ・ダルク裁判』の台詞の場合、実際の裁判記録をそのまま使っていますよね。濱口組の場合、撮影前に演者たちが集まって、徹底した「本読み」を行うことがよく知られています。ブレッソン風に言うと、テキストの反復練習で、自動現象になるまで読む。濱口監督はどの段階で「テキストが俳優の身体に降りた」と判断しますか?
濱口:「降りた」と言われるとわかりませんが、自分の現場で本読みしていて、俳優さんが芯のある「いい声」になってきたな、と思うことはあります。ただ、それも常に起きるわけではありません。シーンによっては十分に本読みを行えない場合もまだまだあります。自分の本読みは、基本的にはジャン・ルノワールの『ジャン・ルノワールの演技指導』(1968年)というドキュメンタリーを見ての見様見真似から始めたもので、俳優たちにひたすら感情を排してセリフを反復してもらって、その言葉を身体的になじませていくものです。ルノワールは本読みの途中から向かうべき感情を発見し、それを発展させるようディレクションしていましたが、自分の場合は、本読みは基本的に、撮影直前までテキストを無感情に読むことを繰り返すだけです。その点ではブレッソンの言う「音節を均等化し、故意の個人的効果はすべて除去することをめざす読書訓練」(P148)のほうに近いのだろうとは想像します。ただ、自分は彼の言うように「鉄のごとき掟」を課すっていうほどではやってはなくって、撮影前の本読みはあくまで、くぐり抜けなきゃいけない「門」のようなイメージです。砂時計の細い部分みたいなのをイメージしてもらってもいいと思います。そこを抜けたら自由にやって欲しい、と言ってやってもらっています。
その「門」をくぐっておいてもらえば後は、俳優はカメラの前で、相手役との相互作用やその場の環境から受ける影響などを通じて演じていくことになります。その中でなぜ自分がこの場でこのセリフを言うのか、ある行動をするのかということを自発的に理解するような瞬間というのがあると思ってるんですけど、そういう時、「なるほど、このセリフはこういう意味なんですね」「この場面は、こういうふうに演じるもんなんですね」ってことが目の前で展開される気持ちになることはあります。




















