加藤喜之×柳澤田実『福音派』特別対談 宗教学者が解き明かす福音派のロジック

『福音派』特別対談 加藤喜之×柳澤田実

 トランプ政権が世間を騒がせている今、その背景で巨大な影響力を持つと言われるキリスト教・福音派を論じ、大きな話題となっている『福音派―終末論に引き裂かれるアメリカ社会』(中公新書)。本書の刊行を記念して、宗教学者・思想史家である著者の加藤喜之氏と、リアルサウンドブックで『ポップカルチャーと「聖なる価値」』を連載する宗教学者・哲学者の柳澤田実氏が対談を行った。

 終末論的な世界観を持つこの宗教集団・運動は、どのような経緯で勢力を拡大してきたのか。日本からはどのような視点で捉えると良いのか。キリスト教を第一線で研究する両氏が語り合った。

福音派の意外な印象

ターニャ・M・ラーマン『リアル・メイキング:いかにして「神」は現実となるのか』(柳澤田実訳、慶應義塾大学出版会)

柳澤田実氏(以下、柳澤):加藤さんの『福音派』、沢山の方に読まれているようで素晴らしいですね。福音派がどういった経緯で出てきた集団であり、現代のアメリカの政治状況にどのようにつながっているのか。そういった歴史を総観できる新書を書かれたことは、本当に大きな仕事だと思います。

加藤喜之氏(以下、加藤):ありがとうございます。わたしはもともと、スピノザとその周辺の神学者や哲学者たちが啓蒙思想にどのような影響を与えたのか、近代の政教分離をどのように確立していったのか、といったことに関心がありました。それもあって大学院時代からいまにいたるまで、17~18世紀の西洋思想史、とりわけ宗教と政治の関係について研究を続けています。

 しかし、いま世界が大きく変わりつつある中で、現代における宗教と政治の関係について考える機会も増えてきました。「なぜ福音派の人たちは、トランプ氏が司法で有罪判決を受けても、彼を支持するのだろうか」といった素朴な疑問に答えるためでもありましたし、日本では誤解されがちな福音派について、その歴史的背景を踏まえて一冊にまとめておきたかったんです。わたしの研究の重要な主題のひとつでもあった政教分離の、いわば応用問題として本書の執筆に取り組みました。

柳澤:加藤さんのおっしゃる通り、福音派は、クリスチャンが人口全体の1%未満である日本では誤解されがちな集団です。そもそもひとくちに福音派といっても、実際にはさまざまな立場、考え方の人たちがいます。

加藤:まさにその通りですね。柳澤さんは実際に出会った福音派の人たちからは、どのような印象を受けましたか。

柳澤:わたしは日本のプロテスタントの主流派の神学部に勤めているのですが、近年主流派は衰退し、福音派、あるいは現在は福音派ではないけれど福音派を通じてキリスト教に触れた学生が増えています。彼らは聖書を神に霊感を受けた誤りのない書物としてとらえていて、書かれている内容を文字通りに信じる立場をとりますが、同時に感受性が鋭い子が多く、自分でこれと決めたものにコミットする情熱的な態度が印象的です。キリスト教会におけるリベラルの衰退と保守派である福音派の増加は、現代社会の縮図のような現象だと思っていました。

加藤:柳澤さんが翻訳された、認知人類学者のターニャ・ラーマン氏の『リアル・メイキング―いかにして「神」は現実となるのか』を興味深く拝読しました。ラーマン氏の研究は、専門的な言葉を使うなら「宗教現象学」になります。キリスト教信仰において人間の意識にどういった現象が起きるのか、讃美歌や礼拝、儀式といった宗教実践が意識をどう補強するのか、そして神をいかにリアルなものにしていくのか、など福音派の心理的な構造を生き生きと描き出すことに成功しているように思えます。

柳澤:拙訳をお読みいただきありがとうございます。ラーマン氏の研究書を読むと、福音派の神との距離感は、これまでのキリスト教信仰と比べてとても独特であることがわかります。わたしは彼女の福音派の研究書を読んだ時、福音派の人たちの信仰はいまの日本でいう「推し活」に似ていると思ったんです。これはラーマン氏にも直接話したことがあるのですが、同意してくれました。

加藤:それはおもしろい見立てです。ラーマン氏の議論を通して福音派の人たちを見直すと、彼らを一面的に「保守」であると捉える必要はないことがわかります。

キリスト教社会で、リアリティの感じ方に変化が起きている

柳澤:わたしは博士論文まで4、5世紀の初期キリスト教の思想について研究していましたが、現代の福音派の信仰はその時代のものとは明らかに異なります。キリスト教の神学では、神を抽象的な存在としてとらえる哲学的な議論が長らく展開してきました。これは、西洋世界にキリスト教が浸透し始めてから、プロテスタンティズムの勃興やさまざまな理論化が進む中でも、少なくとも二十世紀中盤まで変わることはなかったのです。しかし、福音派の信者にはその流れとは異なる、神と自己とのパーソナルな関係を重視する、偶像崇拝にも近い信仰態度が見られます。ラーマン氏も福音派は「説明」を嫌い「ポジティヴな感情」を重視すると論じています。

 これまで概念や理念など、観念的なものにリアリティを感じる文化を築き上げてきたキリスト教社会で、リアリティの感じ方に変化が起きていることは注目に値します。私はこの傾向はキリスト教内部の問題ではなく、社会全体に見られると思っています。先ほどの「推し活」やファンダムに顕著ですが、「自分にとってリアルだ」と感じるものに強く没入する人が増えている。譲れない自分だけの「現実」を重視し、他者とその感覚を共有することがどんどん難しくなり、そもそも共有することに関心がない人も増えています。現在のアメリカの左右の「分断」もまた異なるリアリティへの没入状態と無関係ではないと思います。

加藤:わたしも福音派について強調しておきたいのは、外面的にはナショナリズムとキリスト教が一体化しているように見える部分もありますが、実際に会ってみると敬虔な人が多く、必ずしも政治運動に積極的な人たちばかりではないということです。わたしはテキサスにいた頃に福音派の教会に通っていましたが、そこで出会った人たちは、祈りや瞑想などのスピリチュアル・ディシプリン(霊的訓練)に篤く、熱心に賛美歌を歌うなど、とても敬虔な人たちが多かったです。ただし、だからといって福音派が感情や体験だけを重視して、抽象概念や論理を軽視しているというわけでもありません。彼らは彼らなりに、自分の世界観を説明する手段を持っていますし、ある種の学問的な蓄積や教育も十分あります。その中には、もちろん保守的な社会思想はありますが、同時に社会的にリベラルな考え方、さらに言えば平和主義の伝統もあります。

 しかし、こうした敬虔で多様な思想的伝統をもつような彼らがなぜ宗教右派に取り込まれ、政治化し、トランプ政権を支える存在になったのか。その深層を理解するには、やはり歴史に立ち戻る必要があります。

ディスペンセーション主義とバルフォア宣言

加藤喜之『福音派―終末論に引き裂かれるアメリカ社会』(中公新書)

加藤:福音派の人たちにセンセーショナルなイメージがつきまとう理由の一つに、彼らの考える「終末論」があると思います。しかし、なぜアメリカで長く終末論が生き残っているのか、その理由も歴史を振り返ることでクリアになります。

 福音派の唱える終末論には、特にアメリカにおいて20世紀初頭以降に広まった「ディスペンセーション主義」が非常に強く影響しています。とても簡略化したかたちではありますが、この特殊な終末論は「世界の終わりが近づいており、キリストがまもなく再臨し、世界を裁く」という考えであり、イスラエルという国とユダヤ人の終末における役割を重視する点が独特です。この終末論は、19世紀にイギリスのジョン・ネルソン・ダービーという聖職者によって体系化され、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカのキリスト教徒の間へと浸透しました。ただし、福音派の中にも他の立場を取る人々がいることも付け加えておく必要があります。

 ディスペンセーション主義がアメリカで強く支持されたのは、1910年代から20年代にかけてアメリカのプロテスタントが「リベラル派」と「原理主義」の二つに分かれていったことが背景にあります。前者は「主流派」とも呼ばれ、近代科学を受け入れつつ聖書を歴史的、文献学的に読む「高等批評」という手法を用いていました。他方で後者の「原理主義」の人たちは、先ほど柳澤さんもおっしゃったように、聖書を神の霊感を受けた誤りのない書物として読むので、進化論のような科学的見解は当然受け入れません。近代化が進むにつれて、原理主義の人たちは学問的に洗練された北東部の主流派プロテスタントから排除されるようになり、1940年代頃から自分たちを「福音派」と自称するようになります。

柳澤:追い出された彼らにとって思想の拠り所となったのが、まさにディスペンセーション主義だったというわけですね。こういったことは歴史をたどらないとなかなか見えてきません。

加藤:ご指摘の通りです。ディスペンセーション主義者らの注目を集めた出来事のひとつに、1917年のバルフォア宣言があります。これは大英帝国の「三枚舌外交」のひとつで、第一次世界大戦での戦勝の暁には、パレスチナにユダヤ人国家の建設を認めるというものでした。アメリカの原理主義者たちからすれば、この動きはまるで旧約聖書の預言や約束が成就しつつあるかのように見えたのでしょう。バルフォア宣言は、排除された原理主義者たちにとって信仰を支える力強いエビデンス(裏付け)になりました。

「終末論」は虐げられた人たちにとっての希望のナラティブ

柳澤:わたしからも終末論に関する2つの研究に触れておきます。ひとつは、加藤さんが『福音派』の中で引用されていたダニエル・ハンメル氏の『ディスペンセーション主義の興亡』です。ハンメル氏はその中で、ディスペンセーション主義の精神は南北戦争をきっかけにアメリカで広まったという説を唱えています。

 南北戦争は、北と南でまさに文字通りの分断が起こり、白人同士での凄惨な戦いに発展しました。わたしは最近初めてアメリカ南部を訪れて、そこでいくつかの博物館を見学しましたが、勝ち負けも曖昧な無秩序な戦いの記録が多く残されていて、戦争の混乱と荒廃がいかに深刻だったかを実感しました。そうした文字通りの「分断」を経て改めて「自分たちは同じ集団である」という感覚を取り戻すためのナラティブとして、終末論が機能したとハンメル氏は言っています。問題はその集団意識が白人に限定されていたことですが、現在のアメリカでも似たようなかたちでディスペンセーション主義は機能しているのではないかと感じます。

 もうひとつ注目しているのは、政治学者のウォルター・ラッセル・ミードの指摘です。彼は国連設立の際の国際的な盛り上がりを分析し、国家を超えた統一的な世界政府をつくろうという理想が、ある種の終末論的な熱狂に支えられていたと論じています。つまり、アメリカでは福音派に限らずリベラルの側にも終末論的なナラティブは存在するということです。キリスト教文化圏において終末論とは、ベーシックな共通のナラティブ(物語)であることは間違いありません。

加藤:たしかに終末論の伝統をアメリカの歴史の中に見出すこともできますが、そもそも黙示思想や終末論は、すでに1世紀のパウロの書簡や新約聖書の他の部分にも見られ、それらは迫害を受けているキリスト教徒を励ます役割を果たしていました。こうした終末思想は、その後のキリスト教史においても、抑圧された人々の間で繰り返し現れました。なかでも中世末期から近世にかけてのヨーロッパでは、農奴制下で過酷な状況に置かれていた農民らの間で、16世紀の宗教改革の影響もあって、終末論的な思想が広まり、1524–25年のドイツ農民戦争や1534年のミュンスターの反乱などが起こりました。また、17世紀の三十年戦争においても、劣勢にあったプロテスタント側の一部では、キリストの再臨による最終的な勝利を確信する者たちが現れました。

 以上のような歴史から、終末論という考え方は、虐げられた人たちにとって希望のナラティブであり、劣勢を逆転することができるという強烈な動機づけになるということがわかります。だからこそ1920年代の原理主義者たちだけでなく、現代においても、宗教保守がオバマ期やバイデン期に劣勢に立たされたとき、終末論が彼らに希望や戦う勇気を与えるのだと思います。

シリコンバレーに広がる終末論

井上弘貴『アメリカの新右翼 トランプを生み出した思想家たち』(新潮選書)

柳澤:シリコンバレーのテックリバタリアンの間でも、終末論的な思想や危機意識が強まっています。

 もともとシリコンバレーは、科学と合理性を重んじる世俗的なリベラル文化が主流で、保守的なキリスト教信仰を公にすることはタブー視されていました。しかし、キリスト教信仰を掲げるピーター・ティールが2016年にトランプ支持を表明し、その後、元部下のJD.ヴァンスを副大統領にするなど政界への影響力を強めたことで、このタブーは徐々に解消に向かいます。彼の行動は、隠れていた保守的なテックリバタリアンに政治活動の勇気を与え、信仰を公言する際の障壁を低くしたのです。これにより、テック界における保守的なクリスチャンが可視化され、周囲に影響を与えるようになっています。

 そしてこの流れと並行するように、シリコンバレーの産業は、軍事分野にその中心を移しつつあります。 ティールの行動や、この軍事産業へのシフトという流れを、ナショナリズムの高まりやキリスト教的終末観の盛り上がりと重ねて見てしまうと、いよいよ最終戦争の準備をしているのではないかと恐ろしくなりますよね。しかし、テックリバタリアンたちが福音派のように終末論を文字通りに受け入れているかというと、そうではなく、より比喩的に捉えていると思います。ナオミ・クラインの「終末ファシズムの勃興」が翻訳されたことで、彼らが地球の終末を避けるために本気で火星移住を考えているかのように広まってしまいましたが、実際には彼ら、少なくともティールやイーロン・マスクは、むしろ終末になりかねない現実的危機を回避しようと動いているはずです。

加藤:柳澤さんがおっしゃったテック界のリバタリアンの動向も非常に興味深いですね。今年6月に刊行された神戸大学の井上弘貴さんの『アメリカの新右翼』(新潮選書)も、そのあたりを丁寧に解説しています。たとえばティールのように、現代リベラルへの批判を通じて保守的な立場を取る人物がテック界に現れているのも興味深い点です。一方で、福音派の論者には別の特徴があります。彼らは言語化の能力が極めて高く、たとえ「聖書は誤りのない神の言葉である」といった前提が日本人には荒唐無稽に見えたとしても、そこから論理的で、整合性のとれた世界観を構築していきます。

 福音派が、国家との関係や政教分離をどう考えるかという議論の中で、近年重要視されているのがキリスト教ナショナリズムです。これは、「アメリカはキリスト教国として建国された」「アメリカ的な自由民主主義が機能するにはキリスト教的な土壌が不可欠である」といった考え方です。そうした考えを正当化するために福音派の論者は、ジャン・カルヴァンの流れを汲む17世紀の神学者や政治思想家の理論を援用します。彼らはその主張を論理的に説明し、教会などで信徒にレクチャーするのです。彼らはこうした歴史的な理論を背景に、強固に理論武装されているわけです。

「コミットメント」が加速させる信仰復興と政治的分断

柳澤: 福音派にせよ、ティールらキリスト教保守派にせよ、彼らの特徴は、言語化能力の高さのほかにも、「コミットメント」という概念で説明できるように思います。アメリカ型のリベラリズムが常識化し、あらゆる価値観が多様性の名のもとに相対化され、誰もが自己利益を優先して生きているという人間観が全景化しています。こうした状況下では、自分にとって大事なもののために身を投じることが是とされない空気が生まれていると思います。要するに「誰かのために生きる生き方は愚かだ」という雰囲気が蔓延していると思うのですが、これを道徳性の崩壊だと言うキリスト教保守派の意見も間違ってはいないと思うのです。その結果彼らが、反動的に、国家や既存の伝統のために献身を「強いる」としたら、それは大問題なのですが。

 自分たちを保守だと自認する人々に共通する「大切な何か、大切な誰かのために献身する」態度は、「みんなが自分のしたいことをして邪魔しないのが一番」という価値観しかない現代社会に対する重要な問題提起だと思っています。こうした価値観に限界を感じ、コミットメントを求める若者たちが保守化、右傾化する流れは理解できますし、彼らを頭ごなしに否定するのは建設的ではないと思うのです。「推し活」もそうなのですが、このコミットメントへの渇望があるということを認めた上で、どのようなあり方が望ましいのか、議論したいところです。

加藤:それは近年特に先鋭化している部分ですね。最近の研究では、アメリカのZ世代の間で「信仰復興運動」が起きていることが指摘されています。若い人たちがキリスト教に回心し、熱心に教会に通う現象が見られます。

 この現象の背景には、彼らが高校や大学といった成長過程でコロナ禍をまともに受け、孤立してしまったという事情があります。柳澤さんがお話されたコミットメントは、まさに他者とのつながりを生み出すものです。ファン同士が繋がるように、何かにコミットすることは共同体形成につながりますし、あるいはラーマン氏の研究にもあるように、イエスを信じることで孤独から解放され、「誰かが共にいてくれる」と思うことができるわけです。コロナ禍は、孤独が先鋭化した時代でした。ですので、彼らが保守的な方向へ傾倒するのは理解できます。

 しかし、近年の福音派の文脈の中だと、強いコミットメントは「あらゆることをキリスト教が支配しなければいけない」というキリスト教ナショナリズム的な考えとドッキングしがちです。これを切り離すのは相当難しいでしょう。コミットメントへの渇望がないと生きるのが難しい時代ではあるものの、彼らの欲望をうまく利用し、同じ考えを持たない他者を排除しようとする構造やシステムについては、厳しく批判されるべきです。

柳澤:確かに難しい問題ですが、この構造的な問題を解決するために、加藤さんは宗教と政治の関係をどうデカップリング(分離)するべきだとお考えですか。

加藤:近年の傾向として、落ち着いた対話が非常に難しい状態に陥っていると感じます。左派は2010年代後半以降、大学のキャンパスでの右派論者のイベントを妨害や排除するなど、その意味では言論の自由を認めないキャンセルカルチャーの中に身を投じています。また一方で、保守派は排他的で暴力を煽るような言説で他者を反駁する傾向があります。論破をしたところで、それは自陣営を利するばかりで、互いの理解を深めることにはなりませんし、民主主義で不可欠な対話は決して生まれません。

 いま必要なのは、対話を可能にする新しいプラットフォームの構築ではないでしょうか? プラットフォームが壊れた状態で喧々諤々の議論を続ければ続けるほど、双方ともが暴力的になっていきますし、アメリカでは実際に物理的な暴力も起きているわけです。わたしは大学の研究者・知識人、そして公共の中で語るものとして、プラットフォームの重要性を再度、右派も左派も、リベラルも保守も認識する必要があると思っています。もちろん、近年ではそうした傾向が双方から、少しずつですが、出てきてはいるので、それが一つの流れを作り出すことを期待しています。

■書誌情報
『福音派―終末論に引き裂かれるアメリカ社会』
著者:加藤喜之
価格:1,320円
発売日:2025年9月19日
出版社:中央公論新社
レーベル:中公新書

写真提供
加藤喜之氏:(C)中央公論新社
柳澤田実氏:写真=富本真之

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