松本卓也、デビュー10年目の到達点『斜め論』インタビュー 水平化する世界で弁証法的な対話を再起動するために


自己実現や自己の掘り下げを志向する「垂直」方向と、他者との共生やつながりを重視する「水平」方向。20世紀が「垂直」の時代だったとすれば、21世紀は「水平」へと重心を移しつつある──しかし、それだけでは平準化や同調圧力という新たな病理を生むこともある。精神病理学者・松本卓也は、新著『斜め論──空間の病理学』(筑摩書房)において、「水平」と「垂直」のあいだにある第三の空間=「斜め」の視座から、現代の生を言語化しようと試みる。
当事者性やケア、依存、そしてハイデガー思想を横断しながら、「分断」の時代にこそ必要とされる弁証法的な対話の可能性を問いなおす。本稿では、哲学・科学の領域で幅広く執筆を行う吉川浩満が、松本との対話を通じてその核心に迫る。
垂直から水平へと変化する人間関係

吉川浩満(以下、吉川):松本さんが2015年に『人はみな妄想する』を出されてから10年が経ちました。この10年で、世の中の価値観は目まぐるしく変わったと思います。思想史的にもまさに激動の時代でしたし、『斜め論』を読んでそれを改めて考えさせられました。
松本卓也(以下、松本):ありがとうございます。わたしにとってもこの本は、ここ10年間に考えてきたさまざまなことをまとめるかたちになっています。
吉川:いつ頃から構想されていたのですか?
松本:本の原案ができたのは、わたしが京都大学に異動してきた2016年ごろです。それまでの大学病院とは異なる環境に身を置いて、新しくどんなことができるかを模索していました。
吉川:「垂直」から「水平」へという構図は当時からイメージされていたんでしょうか。
松本:はい。これまで学んできた精神病理学という学問を現代思想と組み合わせることで、いま起きていることをどう考えることができるのか──そういった問題意識がありました。同じ年に『atプラス30』(太田出版)でわたしが責任編集を務めたとき、「水平方向の精神病理学に向けて」と題した論考を執筆しました。フーコーやドゥルーズ、アルチュセールといった思想家を参照しながら、精神病理学の新たな「水平」的アプローチを模索する内容です。これは『斜め論』の第一章にも収録しています。
吉川:この10年で、社会はますます「垂直」から「水平」へとシフトしていますよね。つまり、「権威主義的な関係」よりも「横のつながり」が重視されるようになった。そうした変化に対して、松本さんの議論は非常に予言的でした。
松本:「水平」的な関係性が広く受け入れられるようになったこと自体は悪いことではありません。『斜め論』では、垂直的なものが批判され、水平的なものが導入されてきたことを肯定的に捉えています。たとえば、権威主義やパターナリズムが批判され、いわゆる「ケア」が重視されるようになってきたことです。でも、最近では「水平」化に拍車がかかるあまり、非対称的な人間関係は「悪」とすら見なされるようになってきています。こうした状況に適応できず、差別主義者だと非難されてしまう人も多く見てきました。もちろん批判されるべき差別主義者はいるのですが、かといって、そういう人を糾弾して一件落着というわけではない。そうした社会で、自分はどんなポジションを取るべきなのか──そんなことをずっと考えてきた10年間でもあります。
吉川:『斜め論』の「はじめに」にも書かれていましたが、みんなが一斉に横並びになることで平準化が進み、相互の監視や見えない支配が生まれる。その結果、「出る杭は打たれる」といった同調圧力が生じてしまう。そこにとても強い同時代性を感じましたし、この本を読んでいて、わたしたちの価値観や関係の築き方がここ10年間で急激に「水平化」していくさまを追体験するような気分になりました。
松本:「垂直」から「水平」へのパラダイム転換は、実はもう少し前から始まっていました。精神医学の領域で言えば、たとえば斎藤環さんは2014年ごろから「オープンダイアローグ」という対話療法を展開しています。これはいままでの精神病理学があまりに「垂直」的、権威主義的で、現代思想と癒着するばかりで治療の役には立っていないではないかという批判からはじまった、いわば「水平」的な取り組みでした。こうした批判には意義がありますが、一方で、批判とは本来、弁証法的に展開されるべきです。
吉川:「弁証法的に」というのは?
松本:つまり、批判を通じてわたしたちは、批判された当のものについて考え直す必要がある。斎藤さんの批判についてもそうですが、わたしはこれまでの精神病理学を切り捨ててしまうのではなく、別のかたちで展開するべきではないのかと考えました。実際、精神病理学やその他の臨床心理学の言説の最良の部分、たとえば『斜め論』でとりあげた中井久夫や信田さよ子には、そういった弁証法的な思考の運動がありました。このような問題意識のもとで、近年の「ケア論」的な展開とも接続しながら、『斜め論』の構想を膨らませていったんです。
「当事者」になるには横のつながりが必要
吉川:『斜め論』のような、時代を言語化する本を書ける人は、いま本当に少なくなってしまいました。昔ならそうした仕事は小説家が担ってきました。でもいまは、専門家の中で関心と能力のある人がその役割を引き受けている。まさに「垂直」から「水平」へという松本さんの言葉通り、医療や社会運動、ケアの現場といった「水平」の実践が重視される時代には、そこに身を置く人にしか書けないものがある。そういう意味で、松本さんがこの本を書いたことにはとても納得感があります。
松本:確かに、かつては時代診断や批評といった営みは小説家や批評家が担っていました。でも、いまの時代はそうしたことが書きづらくなっています。だからこそ、批評とは別の場所で、また別のかたちでやる必要があると思いました。
ただ、わたしが避けたかったのは「精神科医による時代診断」です。たとえば、島崎敏樹『現代人の心』、宮本忠雄『現代の異常と正常』、小此木啓吾『シゾイド人間』など、精神科医が社会のあり方を語る系譜は日本にもあります。『斜め論』は、そうした本とは一線を画したいと考えていました。つまり、精神科医の専門性によって社会を語るのではなく、むしろ精神科医の専門性それ自体が問い直されるようになった経緯を語ることで、現代という時代を照射したかったのです。そういう意味で、本書は「メタ時代診断」とも呼べるかもしれません。
吉川:かつて「垂直」の時代には、そうした精神科医の診断的まなざしが有効だった。でも「水平」の時代になったいま、それだけでは通用しなくなっている。松本さんは、精神科医としての知見を活かしながら、「斜め」の視点を模索している、と。そのスタンスこそが弁証法的だと感じます。
松本:いまは「当事者」の時代でもあります。小説家や批評家がマイノリティの声を代弁するということ自体が、非常に難しくなっている。もちろん、当事者が自分の言葉で語れるようになったのは、とても良いことです。でも一方で、当事者自身が語ること“だけ”が正義とされてしまう空気もある。
吉川:「当事者」という言葉が、ここ十年ほどでどのように拡散したのかを考える必要がありますよね。とくに東日本大震災以降、誰でも「当事者化」する傾向が加速したように思います。
松本:『斜め論』でも触れましたが、「当事者」という言葉は、必ずしも「問題を抱えた人々」とイコールではありません。この言葉の源流には、1960年代のアメリカで始まった「自立生活運動」があります。これは重度障害者たちが、社会から剥奪されてきた主権を回復しようとする抵抗の運動でした。
吉川:それが日本では、震災以降、だんだんと「抵抗」の意味を失い、「障害がある=当事者」といったかたちで表層的に消費されてしまったのですね。そうなる以前の日本では、いわゆる「当事者研究」はどのように捉えられていたのでしょうか。
松本:上野千鶴子さんが、自立生活センターを日本で初めて立ち上げた中西正司さんとの共著の中で、「人はニーズ(必要)が発生したときにはじめて当事者になる」と説明しています。
この考え方をもう少し掘り下げると、「当事者」になるためにはグループの存在が不可欠だということになります。人はひとりで当事者になることはできず、同じ障害をもつ仲間との「水平」的なつながりの中で、対話を重ねながら少しずつ当事者になっていく。他者との関係性のなかで、思いもよらなかった可能性が開かれ、そこからニーズが発生する。誰かから見て「当事者である」のではなく、自ら「当事者になる」わけです。自分の中にある思いを語ることで、新しい真理が浮かび上がる──これもまた弁証法的な運動です。
吉川:障害をもつ人が、ひとりだけで「当事者」になろうとすると、弁証法的な運動が起きずに、自家中毒的になってしまう。だからこそ、グループでの対話が必要だということですね。
松本:ここでひとつ強調しておきたいのは、フランスの精神科医ジャン・ウリが批判的に名指した「a食らい」がいま蔓延していることです。ウリは、精神病患者の語りの奥にある欲望や欠如であるところの「対象a」に医者が向き合わず、患者のつくったアート作品などを安易に商品化して売り捌こうとする態度を「a食らい」として批判しました。いまは「当事者」をそうしたかたちで搾取する時代でもあります。「当事者」の言葉をパッケージ化して即座に売り出すような姿勢は、出版の現場にもよく見られるということは指摘しておきたいですね。





















