『近畿地方のある場所について』単行本とは異なる文庫版の謎めいた情報の正体ーー書評家・千街晶之が対比

 近畿地方のある場所について文庫版を読む

「怖い」ということは、必ずしもホラー小説にとって絶対条件ではない。しかし、文章だけで読者を怖がらせることは決して容易ではなく、この技術が最も必要とされるジャンルがホラーなのも事実である。従って、ホラー作家は、いざとなれば読者を恐怖のどん底に突き落とせるほどの筆力と技巧を、伝家の宝刀として持っていなければならない。

 小説投稿サイト「カクヨム」から登場し、2023年にKADOKAWAから『近畿地方のある場所について』を書籍化してデビューした背筋は、その意味では超一流のホラー作家といえるだろう。それなりにホラー読書歴は長いつもりの私だが、読んだだけで祟られそうに感じるほど怖い小説にめぐり合ったのは本当に久しぶりだった。

 『近畿地方のある場所について』は、著者と同じ「背筋」という筆名を名乗るライターの「私」が失踪した編集者の小沢についての情報を探し求めている文章と、近畿地方のある一帯で時代を超えて起こり続けているらしい怪異の記録とによって構成されている。オカルト雑誌の記事、読者からの手紙、ネット掲示板への投稿など、いかにも実際の出来事めかしたそれらの記録で織り成される物語は、三津田信三『のぞきめ』、小野不由美『残穢』、芦沢央『火のないところに煙は』等々、2010年代あたりから流行しているフェイクドキュメンタリー(モキュメンタリー)・ホラーの系譜に連なるものだが、『近畿地方のある場所について』は怪異のリアリティの演出と虚実のないまぜのセンスが抜群であり、まるで読者が実際に呪いに取り込まれてしまうような忌まわしさを醸成していたのだ。宝島社の『このホラーがすごい! 2024年版』のアンケートで、小田雅久仁『禍』と並んで国内部門1位に選ばれたのも当然の出来映えだった。

 そして2025年7月、角川文庫から『文庫版 近畿地方のある場所について』が刊行された。だが、この文庫版については、発売前から謎めいた情報が流れていた。どうやら、単行本とは内容が異なっており、登場人物までも違うというのだ。一体、それはどういうことなのか。

■背筋という人気作家が故のギミックの難しさ

 というわけで、実際に『文庫版 近畿地方のある場所について』(以下、文庫版と記す)に目を通してみた。序盤でわかる情報を別として、基本的にはストーリーのネタばらしは行わないつもりだが、それでも先入観なしに読みたい方はここで本稿に目を通すのを止めていただきたい。

 単行本では、失踪するのは新人編集者の「小沢」、彼を探しているのはライターの「私」こと「背筋」である。ところが文庫版では、失踪するのはライターの「瀬野千尋」、彼女を探しているのは雑誌編集者の「私」こと「小澤悠也」なのだ。従って、作中で「『近畿地方のある場所について』1」「『近畿地方のある場所について』2」などと題されたパートの内容も、単行本と文庫版とでは全く異なる。

 一方、雑誌記事、読者からの手紙、掲示板の投稿といった箇所は、一部を除いて単行本通りである。しかし、掲載の順序が異なっている部分はあるし、単行本にはあるが文庫版にはない箇所、逆に文庫版で新たに追加された箇所も存在する。

 これはどういうことなのか。単行本出版時、背筋という著者は全く無名であり、その正体も不明だった。だから、作中の「私」=「背筋」というギミックも成立したのだ。しかし、文庫化されるまでの2年間で、著者は素顔を明かし、インタビューや対談などでは、寺の住職の息子として生まれたといったパーソナルな情報(「映画秘宝」2025年9月号参照)も自ら発信している。つまり、著者が正体不明であることを前提とするフェイクドキュメンタリーの要素は成立しづらくなったのだ。

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