伊藤政則が振り返る、プログレッシブ・ロックの時代「『原子心母』は聴いたことがないような音楽だった」

伊藤政則といえばメタル・ゴッドの異名を持ち、ハード・ロック/ヘビー・メタルに詳しい音楽評論家として知られる。だが、執筆活動の初期から、プログレッシブ・ロックについても多く語ってきた。1960年代後半に登場したプログレッシブ・ロック(直訳すると進歩的・革新的ロック)は、クラシックやジャズとの融合、変拍子の多用、大作志向、メロトロンやシンセサイザーの活用などの特徴がある。『伊藤政則 ライナーノーツ集 プログレ編』(シンコーミュージック・エンタテイメント)には、1970年代半ばから彼が手がけてきたこのジャンルのライナーノーツのうち40作が収録されている。メタル・ゴッドは、プログレとどのようにつきあってきたのか。(5月20日取材・構成/円堂都司昭)
あの頃は全部がロックという感覚でした

――『伊藤政則 ライナーノーツ集 プログレ編』は、シンコーミュージック・エンタテイメントの担当編集者、笹川孝司氏の「はじめに」という文章から始まります。
伊藤:笹川さんが何年も前からこの企画を本にしたいといってくれていて、イギリス編、アメリカ編、その他の国々編と本を地域別の構成にすることを考えたのも彼だった。だから前書きは笹川さんがふさわしいと思ったんです。
――政則さんが書いたプログレのライナー全部が収録されているわけではないですよね。
伊藤:半分以下ですね。まず笹川さんに原稿を選んでいただいた。僕は1976年くらいからロック関係の文章を書き始めましたが、最初はパッションだけが空回りしている感じで、なかには今読んだらどうかなという原稿もあった。当時、23歳でした。音楽業界の方に「原稿を書いて」といわれ嬉しくて書き始めたけど、今読み返すと意味が通ってないものもあって、直しようがない。そういうものは落としたので、ジェネシスなどの原稿が入っていない。ただ、読めばわかる通り、時代ごとにレコードに入っていたライナーを集めたものなので、過去から現在へ歴史がつながる事実が、時間とともに過ぎて今日に至るという切り口の本になっている。だから、昔の原稿を今さら書き直すわけにはいかなかったんです。
――伊藤さんはハード・ロック/ヘビー・メタルの専門家というイメージが強いですが、1971年にピンク・フロイドが出演した音楽フェス、箱根アフロディーテをご覧になるなど、早くからプログレとも親しんでいた。ロックとはどのように出会ったんですか。
伊藤:聴き始めはラジオでしたから、基本的にLPはかからなかった。高校生の小遣いでLPはなかなか買えないし、7インチシングルを買っていました。プログレッシブ・ロックという言葉は、本当に後から聞いた感じです。ピンク・フロイドとかエマーソン・レイク&パーマー(EL&P)とか、長い曲はラジオでかからないからね。でも、ハード・ロックのグランド・ファンク・レイルロードとか、シカゴはかかるんです。僕は中学でブラスバンドをやっていたので、シカゴ、ブラッド・スウェット&ティアーズ、ジ・アイズ・オブ・マーチとかホーン・セクションが入るロックが好きだった。そのうち、ラジオの深夜放送などを聴いて、シングル盤の普通のポップスとは違うものがあることを知ってメモした。プログレで最初に買ったのは、ピンク・フロイド『原子心母』。これは、『オールナイトニッポン』でDJの亀渕昭信さんが、LPの片面全部を使ったタイトル曲をかけた。来日する話もしていて、なんかすごいことになったなと思った。ロックはなんでもカッコいいと感じていたけど、「原子心母」は聴いたことがないような音楽だったからね。
それからEL&P『展覧会の絵』を買って、そうこうするうちにフロイド『おせっかい』も出た。いつプログレを好きになったのか、ハード・ロックを好きになったのかとよく質問されるけど、あの頃は全部がロックという感覚でした。自分の中でも後になってハード・ロック/ヘビー・メタル、プログレという認識になったんだと思います。
――最初の頃はそんなに区別していなかった。
伊藤:誰も区別していなかったでしょう。日本人はまだ外国のバンドをあまり見ていなかったし、LPを買って友だちと交換しながら聴いたのは、多少お金のある都会の人たち、あるいは田舎のお兄ちゃんやお姉ちゃんが弟に少し聴かせてくれるくらい。僕は岩手県出身ですけど、1971年の風景はそんな感じだった。当時、一般の人にとってはロックなんて騒音並みの認知ですよ。
その頃、プログレを書ける人があまりいなかった

伊藤:後にイエローキャブの社長になった野田義治さんが働いていた会社が1972年頃にロック喫茶を何店かオープンさせて、僕はレインボーという店でDJのバイトをしました。客は大学生がメイン。プログレではキング・クリムゾンが大人気で、次いでフロイド、EL&P。プログレ以外だとジミ・ヘンドリックスとかジャニス・ジョプリン、ディープ・パープル、レッド・ツェッペリン、オールマン・ブラザーズ・バンドは必須でしたね。来日したからフリーも人気がありました。僕はプログレっていうと、やっぱりクリムゾンですね。ジェネシスは当時知らなくて、日本ではその頃、まだ売れてなかったんじゃないですかね。
――音楽評論家になってからは、ハード・ロックやプログレを中心に書いていった。
伊藤:みんな、ハード・ロックが好きだったんじゃないですか。わかりやすいじゃない? 1969年のウッドストック・フェスティバルの映画を見ると、出演アーティストの多くがデカいハードな音だった。ロックってああいうもんだって、みんなが思った。僕はプログレも好きで、高3でピンク・フロイドを箱根で観て、半年後の3月に東京体育館でまたフロイドを見て、夏にはディープ・パープル。レッド・ツェッペリンも同じ頃だから、好きなものを立て続けに見ちゃった感じなんです。プログレってハード・ロックっぽいのもあるでしょう。ハード・ロックとプログレが融合したものもある。両方の要素がくっついて回転し、台風みたいに大きな勢力になる。僕が好きなのは、その全部なんです。
――1970年代後半には、パンク、ニュー・ウェイブの登場があってロックの潮目が変わります。今度の本を読むと政則さんは、ニュー・ウェイブに影響を与えテクノの源流とも位置づけられるクラフトワークのライナー(『人間解体』)を書いているんですよね。
伊藤:昔は、レコード会社に若い人を育ててやろうという考えがあったんです。伊藤政則、大貫憲章、渋谷陽一で同世代の音楽評論家といわれるけど、僕は一番年下で遅れてやってきたから、仕事のない男ってイメージもあった。だから、レコード会社に行くと、「これを書いてきてよ、2週間くらいで」と資料の紙1枚と海外から送られてきた白盤をくれる。例えば、ブレインというレーベルのハルモニア。当時はインターネットなんてないからとりあえず聴くと、今でいうテクノだけど、テクノって言葉はまだないからプログレのあつかい。しかもブレインはドイツのレーベルだから、メンバーの名前の発音もわからない。そんな仕事をもらっていたんです。
パンク以前の時期にロンドンへ行ったことがある。東芝で「ロンドンへ行くんだって」と聞かれ、金がなくて大変ですよといったら、餞別代わりにルー・リードを書かせてもらった。ほかにも餞別で「これ、プログレだから」といわれ、クラフトワークも書いた。今ふり返ればテクノの源流だけど、初期のクラフトワークやノイ! は実験的なミニマル・ミュージックだった。タンジェリン・ドリームも1981年の来日が決定した時、ロンドンにいた僕は、彼らのベルリンのスタジオ取材を依頼されました。
――今となっては意外な仕事ですね。
伊藤:こういう系統の音楽は当時、間章さんとか哲学者の人が書いたりしていた。ロックという音楽を日本市場でどう広げるかを考えた際、『美術手帖』の編集長とかイラストレーターの宇野亜喜良さんとかにライナーを書かせ、カルチャーとしてもっと若者に根づかせようとした。音楽業界の先輩たちは、1970年代にそういう運動をしていたんですよ。
プログレのライナーも、アカデミックな人にライナーを任せるレコード会社があった。でも、僕はキャメルとか、プログレのなかでもわかりやすいものが好みだった。キャメルは1974年のツアーをイギリスで観たけど、ライブだとアンドリュー・ラティマ―がデカい音でギター・ソロを弾いたり、ハード・ロックっぽい。その頃、プログレを書ける人があまりいなかったようで、僕はいろいろなライナーを書きました。ところが、1978年くらいからシーンが変わり、仕事がめっきり減りました。あの頃は食えてはいけたけど、書きたいものがない時代に突入しつつあった。
――当時は、ニュー・ウェイブとそれ以前の線引きがきつかったですよね。
伊藤:今の世代は、パンクのセックス・ピストルズ、クラッシュも、メタルのモーターヘッドも両方好きだという人も多いけど、かつてはパンク、ニュー・ウェイブとハード・ロック、プログレは、はっきり分かれていた。だから、ロックが世のなかに浸透してジャンルが分かれてくるにつれ、音楽雑誌もそれぞれのジャンルに特化してセグメント化していった。そうした動きが強まったのが1978年くらいからじゃないですかね。
今の世代は、ピストルズを聞いても時代が変わるとは思わないでしょう。当時は時代が変わると思った人がいっぱいいた。そんな1978年頃、プログレで活動していたバンドもいたけど、新しいものがいっぱい出てくるなかで埋没し注目されなくなってきた。それでプログレに関しては、世のなかに知られていないものがまだいっぱいあるという方向へ進む。当時、新宿レコードでよく買っていたけど、「政則さんが好きなのは、ドイツのピコピコしたものじゃないから」とイタリアとか北欧のプログレを薦められた。パンク登場の前後、そういう輸入盤店がヨーロッパとのルートを作って新譜を入荷するようになった。イタリアのPFM(プレミアータ・フォルネリア・マルコーニ)が1975年に来日公演を行なったのも大きかったと思う。僕がフランスのタイ・フォンを見つけたのは中野レコードでした。



















