金属恵比須主催 プログレッシヴ・フォーラム「SFと小松左京、そしてロック音楽」イベントレポ

小松左京とSF、そしてロック音楽

 5月27日、東京・新宿ROCK CAFE LOFT is your roomで、金属恵比須主催 プログレッシヴ・フォーラム「SFと小松左京、そしてロック音楽」というトーク・イベントが開かれた。これはプログレッシブ・ロック・バンドの金属恵比須が、小松左京の同名小説をコンセプトにしたアルバム『虚無回廊』を発表したことに伴うもの。小松の元マネージャーで『小松左京さんと日本沈没 秘書物語』などの著作がある乙部順子、山下達郎のキーボーディストを務めソロ活動ではSFをモチーフにした曲を作り小説も発表してきた難波弘之を迎え、SFとロックをめぐるざっくばらんなトークが展開された。

 イベントは、金属恵比須のリーダーでギター、ボーカルの高木大地の司会で進んだ。第1部は「小松左京の魅力」と題し『復活の日』(1964年)、『日本沈没』(1973年)、『首都消失』(1985年)など映像化も多いこの日本SFの巨人について、乙部を中心に話が展開された。

小松さんの合理性には、兄弟が冶金をやっているという背景があった

乙部:今日の催しについては、事前に「夕刊フジ」に記事が載るというのでコメントを求められ、「小松左京はロックだ。その心はトーク・イベントで話します」といったんですよ。

 小松左京とはどんな人か。大阪で理化学機械工場をやっていた家の次男が小松実、後の小松左京でした(1931年生まれ)。母は良妻賢母というか、本は買ってあげるけどマンガは読ませない。父親は理系なので「子どもの科学」は与えた。兄も弟たちも理系になったけど、小松さんだけははみ出し者で京都大学ではイタリア文学専攻でした。

 そういう環境だから、家族の普段の会話に科学的知識がさしはさまれる。最初の長編『日本アパッチ族』(1964年)で、鉄くずを食べ精錬して排泄するという奇想天外な話を書きましたけど、創作メモにはその化学式も書いてあった。小松さんの合理性には、兄弟が冶金をやっているという背景があった。小松さんは空想科学小説を読む一方、ユーモア小説も好きで、戦争がなかったらユーモア作家になっていたというような少年でした。

高木:モリ・ミノル名義でマンガも描いていますものね。

乙部:マンガは友だちから借りて読む一方、先生の似顔絵を描いてクラスでウケていた。

難波:当時の正しい文学青年でもあって、京大では共産党に入った(しばらくして離党)。

乙部:共産党では仲間の歌唱指導をしました。小松さんは、男声と女声でハモらせたいと思ってコーラスに編曲した。音楽に関しては、本人もビオラを習っていたし、お兄さんが先にバイオリンを習っていてクラシックに詳しかった。兄の結婚相手は声楽を勉強した人で嫁入り道具にピアノを持ってきたら、小松さんのお母さまは「あらまあ、久しぶり」といってポロンポロンって弾いたんですって。彼女はもとは東京の人形町のお嬢さまで、ピアノを習っていた。

勉強はできるのに不良仲間とつるむように

 小松左京は「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれたが、乙部もブルドーザーのような勢いで喋り続ける。だが「小松左京はロックだ。その心は」になかなかたどり着かない。それを難波につっこまれると「その前段が大事なわけよ」と答えつつ、さらに前段は続く。


乙部:そのままのほほんと成長すれば、幸せな作家になれたでしょう。でも、10代で戦争に突入した。小松家は陽性の人ばかりで、実少年も「うかれ」さんといわれ、柔道の乱取りがワルツになってしまうような子。軍国的な気風が強くなると、浮かれたやつは非国民といわれてしまう。だから、中学では勉強はできるのに不良仲間とつるむようになった。

 卒業の時、クラスで寄せ書きをしてもらったんですけど、一番の秀才が「小松実の寄せ書きに書きたいと思わなかった。嫌っていたからだ」と書いた。彼からすれば、不良とつるみ怒られてばかりいるのに試験はいい点を採る憎きやつなんです。しかも、良い高校(三高)に入っちゃった。秀才は「嫌いだったけど無視できなかった。だから書く」と書いていた。

 戦後、民主化され軍国教育から解放されました。学校でも級長を選挙で決めなきゃいけない。すると、不良たちが投票するから小松さんが選ばれた。価値観が180度転換した時代。そういう経験をするうちに小松少年は、気骨のある少年になったんでしょう。大学卒業後は経済誌「アトム」に携わり、漫才の台本を書き、「SFマガジン」創刊を知った。

高木:そして1961年の第1回空想科学小説コンテスト(後のハヤカワ・SFコンテスト)に入選した「地には平和を」でSF作家として歩み出した。

乙部:いろいろあったけど、書くことで生きていこうというのは曲げなかったんです。

 京大の文学同人誌では、純文学作家になった高橋和己さんなどと、ドストエフスキーとか実存主義とか難しい議論をした。高橋さんは、色白で細くて見た目も弱々しい。それなのに、酒を呑むとそばの人に喧嘩を売る。相手は「なにを」と立ち上がる、そこで、柔道とラグビーで鍛えてガッチリした骨格の小松さんが割って入った。「とにかく高橋を逃がすため、そのへんのもので殴って相手が倒れている間に逃げた」んですって。

高木:ロックですね。僕らより全然ロックです。

乙部:「だから俺はあぶないんだ」って言ってました。私は秘書になり、1980年代に多くのプロジェクトを一緒にやったんです。花博(国際花と緑の博覧会。1990年)の打ちあわせでは、相手側がわけわかんないことをいって、小松さんが「なにを」と立ち上がった。そばにビール瓶があったから私は、危ない、やりかねないと思って掴ませないようにパッと隠しましたよ(笑)。

 小松左京を戦友だと私が感じた最初のできごとは、1981年にホテルニューオータニに「エレクトロオフィス」を作った時のこと。それは東京での最初の小松左京事務所で、インテリジェンスオフィスのはしりでした。マイコン時代が始まる黎明期で、当時の最新機器を置いて、日本未来学会の先生方と知的活動の拠点にしようとした。

難波:オフィスに遊びに行って、乙部さんと初めてお会いしました。小松先生に「ここにシンセを置いていけ」っていわれて、いや、置いていくと僕は音楽の仕事ができないのでって(笑)。

乙部:「エレクトロオフィス」のオープニング・シンポジウムで、大きなプロジェクターを使って発言者の顔を拡大しようとしました。でも、不在の小松さんの意図を私が関係者に伝えても理解してくれない。お金がかかりすぎるという相手を説得しようとして喧嘩になって「なんだ、あの生意気な“女”は」といわれた。すると「なにを。文句があるなら俺にいえ」と小松さんが立ち向かってくれた。なんて頼りになる男だろうと、その時、戦友になった気がします。

小説として破綻するに決まっているものをあえて書いてしまう

 無事ロックにたどり着いたのに続き、金属恵比須『虚無回廊』のタイトル曲と、2013年に難波弘之が発表した「虚無回廊」(『Childhood’s End~幼年期の終り~』収録)の聴き比べが行われた。両者はキーボード中心のアレンジなど共通した雰囲気を持つが、高木は難波の曲を聴かずに作曲したという。どのように音楽化したかでは、2人に違いがみられた。


高木:まず物語を年表としてまとめました。それを元に作詞のメモを始めました。冒頭で登場するヒデオ・エンドウが人間か人工実存(ロボットのようなもの)か判断が難しく、それをまとめることから始めました。

難波:場面からではなく全体的なイメージで作りました。小松左京は子どもの頃に読んだ『復活の日』、『影が重なる時』(1964年)、一番驚いた『神への長い道』(1967年)のイメージがあったけど、『虚無回廊』(I・IIは1987年、IIIは2000年)を読んで、こんな話を書いてどうするんだろうと思ったら案の定、収拾がつかない。

乙部:後に谷甲州さんの力を借りて一応第二部(2006年)を作りましたけど、『日本沈没』だって第一部完という形で出していたし、小松さんはわりとそういう作品が多いんです。

難波:とても小説なんかにまとめられねーよ、バカヤローって感じで爆発しちゃうのが、持ち味。小説として破綻するに決まっているものをあえて書いてしまう。凄まじいエネルギー。

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