杉江松恋の新鋭作家ハンティング 落語家のドキュメンタリー・ノヴェル『俺とシショーと落語家パワハラ裁判』

落語家界のパワハラ裁判を小説に?

 この不条理な師弟関係は、流転・日南のそれと対比される。流転がするのはもっと直接的な暴力だ。つまり、気に入らないから殴る、言葉の暴力で相手を貶める、抵抗できないのをいいことに弄ぶ、といったような。前半に人間性どころか、この世のことわりさえも超えたような大磯による破門劇があるので、流転のそれは読者にとってもっと身近なものに感じられる。これは計算だろう。大磯の宇宙発言を受け止められる者はいないが、流転のそれは皮膚感覚で理解できるのだ。

 死にもの狂いで師匠と制度に抗う友人に、名を改めたはらいそは伴走しようとする。ここは感動的だ。友情の物語としてちゃんと成立している。旧・日南は新しい師匠に拾われ、名前も改めて再出発を切ることになる。それだけならよかったよかったで終わるが、後半になって作者は一つの問いを投げかけてくる。

 西遊亭大磯と流亭流転がしたことは同じ、いじめだったのではないか。

 大磯をはらいそは許せるが、流転を夕鳩は許せなかった。それはなぜか。

 落語の世界は伝統で成り立っていて、師匠が弟子を人間扱いしないのは修業のためやむをえないのだ、という言説がある。はら磯の疑問は、ここに関係してくる。伝統だから、といじめを単純に肯定する立場にも、時代が違うから、と否定する立場にもそれぞれの言い分がある。だから考えずに乗っからない。そうすれば思考停止の二元論には陥らない。

 省略したが、文章には細かいくすぐりがたくさん入っていて楽しかった。自分自身ではない世界も書ける人だと私は思う。なんといっても読んだ後で晴れやかな気持ちになる。人を楽しくするのがいい芸人だし、いい小説家だと私は思う。はらしょうは両方になれ。

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