今村翔吾が語る、世界的な事件としての元寇 「元によって滅んでしまった文化もあるけれど、発展した文化もある」
人間というのはある一定を超えると、もう止まれなくなるのかも
――本作『海を破る者』のキーとなるのは、先ほど話にも出てきた「令那」と「繁」という、異国から流れ着いた2人だと思います。それこそ「誰なんだろう、この人たちは?」っていうところから。
今村:そうですね。戦争というのは、良くも悪くも人を繋げるところがあります。この時期は元がシルクロードを制圧したことによって、文化や人の往来が活発になった時期でもあるんです。そういう意味で、戦争もひとつの繋がり――という風には言いたくないけれど、歴史を見ていると、そう言わざるを得ないところもある。元に征服されたことによって滅んでしまった文化もあるけれど、それによって発展した文化もあるわけで。物事にはいろんな側面があるっていうことも、この小説で書きたかったことのひとつです。
もう一つ、僕の中でこの2人を鍵となる人物にした理由として、西はポーランド、東は日本まで、元が侵攻した国々を見ていったときに、特に凄惨な目にあった国の人物を選んだということもあります。ウクライナに関しては、一度は侵略を拒否して戦ったけど負けてしまった。高麗はあっという間にやられたんだけど、タカ派の人たちがまったく関係のない島を占拠して抵抗を続けたんです。元がそれぞれの国の民衆にもたらしたことの違いを探っていったところもあります。
――ただ、その当事者であるフビライ・ハーンの意図だったり、元側の考えみたいなものは、本作では一切描かれません。その得体の知れなさが、すごく怖かったです。
今村:そこは敢えて書かなかったというか、僕たちにもわからないじゃないですか。今の時代だったら、たとえばテレビとかの映像を通して、ロシアのプーチンの発言とかを知ることができるけど、あの頃は下手したら元のトップの名前すら知らないような人がいっぱいいたと思うんです。もちろん、ウクライナの方がどうなっていたのかもまったくわからないわけで。現場で戦っている人たちが「何のために戦ってるんやろう?」と思ってもおかしくないというか、国と国の争いを個人に落とし込んでいくと、納得がいかないことや不可解なことがいっぱいあるわけで。
――六郎は六郎で「元は何のために日本を攻めてくるのだろう?」と考えたりもします。
今村:それは僕の疑問でもあって――僕らは歴史を知っているから、領土を広げ過ぎたせいで元がだんだんと統治不可能になっていくことがわかるし、だからこそ「そんなに広げんでいいやん」と思いますが、それはある意味、今の時代の会社とかに似ているのかもしれないよね。もう十分大きくなって、社員たちも満足しているのに、会社は大きくなろうとするものじゃないですか。
――何か資本主義っぽい話ですね。一度動き始めたら、誰にも止められないという。
今村:人間というのはある一定を超えると、もう止まれなくなるのかもしれません。0が1になってしまった時点で、もう無限に進むしかないというか。禅問答じゃないけど、人間の心の中もまた無限だから、内面的に潜っていくような人もいて。外に向かって無限に進んでいくか、内に向かって無限に進んでいくか、その二択しかないのかもしれない。そうやって、外側に向かっていったのが元であり、内面に向かっていったのが一遍だったのかな、という風に考えながら書いていった小説ではあります。
――その狭間に立った六郎もまた、いろいろなことを考え続けていた。
今村:六郎は最後まで何もしなかった人じゃなくて、最後は戦わざるを得ないというか、タイムリミットがきたときには率先して動く人ではあるんだけど、最後まで考えることを放棄しなかった人なんです。僕はそれこそが、戦争を止め得る唯一の手段じゃないかと思っているところがあります。理想論かもしれないけど、考えることを放棄したときに人間は滅ぶんじゃないかと。そのことは『じんかん』でも書いていて――あの小説の中で細川高国は「民は支配されたがっている」と言います。支配されて考えないほうが楽だから、と。たしかに人間にはそういう側面もあるでしょう。だから僕にとっていちばんのテーマは「なぜ人は争うのか」もそうだけど、「人間とは何か」に近いところがあるのかもしれない。
――そこに「正解」はないですからね。
今村:そうですね。僕が研究した「人間とは?」という問いの結果を小説にしているというか、そこに歴史的な事象とか人物とかをマッチングさせて書いているのかもしれません。
希望や理想があるからこそ、そのギャップを認識できる
――ところで本作の最後、元軍を撃退したあとに、ある仕掛けが用意されていて、このあたりが今村さんらしいなあと思いました。
今村:そうかもしれません。ただ、あの仕掛けはまったくのウソではなく、そういう一文が史料にあり、そこから思いついた話です。僕は人間の汚い部分も描いていくんだけど、人間の強さとか美しさを信じたいところがある。そういう甘ちゃんというかロマンティストなところは、多分ずっとあるんじゃないかな(笑)。
――あるインタビューで「期待はしないけど、希望は捨てない」とおっしゃっていたのが、すごく印象に残っています。
今村:大人になると、期待が裏切られることがいっぱいあるだけど、どこかには希望を持ち続けたいと思うんです。希望を捨ててしまうと、自分が自分ではなくなってしまうような気もします。実際のところ、僕の希望や理想通りに世の中が進むことなんてほとんどないのはわかっているんだけど、希望や理想があるからこそ、そのギャップを認識できるのも人間じゃないですか。もしも過去の人たちが希望を捨てていたなら、僕たちは生まれていないかもしれない。地球を何度も滅ぼせるだけの核兵器がもうあるんですから。
――たしかに。そういった考え方が、今村さんの小説の「熱さ」や「エモさ」に繋がっているような気がします。
今村:そうかもしれないですね。だけど、僕の小説を読みたいと思ってくれている人がいるということは、みんなも心のどこかでそれを信じたいと思っているからだと思います。世の中はしんどいことばかりだけど、それでもまだ信じたいと思っている人がいるから、僕の小説が読まれるのであって。僕の小説が読まれないようになったら、この世はもう希望も何もないのかもしれない(笑)。
――今村さんの小説が読まれていることが「希望」だったんですね(笑)。
今村:(笑)。ただ、僕の最近の読者はめちゃくちゃ若いし、女性とかもすごく多いんですよ。明らかに他の歴史小説家とは読者層が変わってきている。もちろん、歴史好きな方もいらっしゃるけど、中高生とかもめちゃくちゃ多くて。それは作家としてすごく嬉しいことですよね。未来の人たちに読まれへんかったら意味がないというか、いつかは僕も消え去ってしまうけど、僕より年下の読者がいるってことは、たぶん死ぬまでは書かせてもらえるんじゃないかな。
――最後にひとつ大きな質問をさせてください。今村さんは、『教養としての歴史小説』で、歴史小説を「読む」ことの面白さについて書かれていましたが、歴史小説を「書く」ことの面白さは、どんなところにあると思いますか?
今村:たとえば、今回の話で言ったら「河野通有」という、ほとんどの人にとってイメージがなかった人物に、何かひとつ僕が生み出したイメージがついて、みんなの心の中で生きるというのは、やはり創作者としては楽しいしやりがいがあります。『じんかん』で、それまで悪人と思われていた松永久秀を新たなイメージで描いてみたり、『八本目の槍』で石田三成を描いたら「今村さんのイメージで三成を見るようになりました」と言ってもらえたりとか。みんなの中にあるイメージが書き換わったり、新たに生まれたりするのは嬉しいことですね。
――それは、歴史上の人物についてだけではなく、実際の場所や史跡についても言えるかもしれません。
今村:そうですね。場所の話でいちばんわかりやすい反応があったのは、やっぱり穴太衆の石垣かな。『塞王の楯』を読んでから、石垣を見る目が変わったってよく言われます。
――僕も変わりました。
今村:普段は当たり前の風景として見ていたものが、「これって、誰かが積んだんやな」って、みんなの頭の中で切り替わったなら、僕としてもあの小説を書いた甲斐がありました。人の心の中にそういうものが残るのは、小説にかかわらず、ものを作っている人間にとっていちばん嬉しいことなんじゃないかな。
――現代を舞台とした小説でもそういうことはありますけど、歴史小説の場合は、その場所に行って、悠久の時の流れに思いを馳せるみたいなところがあって……。
今村:そう。現代を舞台にしたフィクションで、実際の地名とかを出すことはもちろんできるけど、そこに僕が描き出したキャラクターが立っているというイメージは、意外と湧きづらいと思うんです。だけど、歴史上の人物とか、それこそ実際に起こった事件だったら、僕が描いたイメージを共有してもらうことで、時の流れが巻き戻って、そこにいた無数の人たちの顔とか背中とか、そこで流された血とか、いろいろなものが感じられると思うんです。「ああ、六郎はこの場所に立って、海の向こうを見ていたんやな」とか。意外と歴史小説のほうが、そういうものを身近に感じてもらえるところがあるのかもしれません。
■書籍情報
『海を破る者』
著者:今村翔吾
価格:2200円
発売日:2024年5月24日
出版社:文藝春秋