北海道の鉄道、なぜ多数が廃線に? 作家・小牟田哲彦に聞く、戦後日本交通史

廃線から読み解く鉄道史

廃線から読み解く鉄道史

小牟田哲彦『日本鉄道廃線史 消えた鉄路の跡を行く』(中央公論新社)

 近年、ローカル線の存廃問題が、連日のようにニュースで報じられている。特に北海道の鉄道を取り巻く問題は深刻であり、令和に入ってからも石勝線の新夕張駅~夕張駅間、札沼線の北海道医療大学駅~新十津川駅間、日高本線の鵡川駅~様似駅間、留萌本線の石狩沼田駅~留萌駅間、そして今年は根室本線の富良野駅~新得駅間が廃線になったのは記憶に新しい。

 留萌本線は2026年に全線の廃線が決まっているし、北海道新幹線の開通に先立ち、函館本線の長万部駅~小樽駅間も廃線が議論されている最中だ。『日本鉄道廃線史 消えた鉄路の跡を行く』(小牟田哲彦/著、中央公論新社/刊)は、失われた鉄道路線と、廃線に至るまでの歴史を紹介した一冊である。図版を見るだけで、かつては日本中に鉄道網が張り巡らされていたことがわかる。

 廃線が加速度的に進んだのは戦後に入ってからである。1968(昭和43)年に赤字83線が列挙され、本格的な鉄道廃線の議論が起こった。国鉄民営化の際には特定地方交通線に指定されたローカル線の整理が加速度的に進んだが、平成以降は自然災害による被災を機に廃線になる例が相次いでいる。

 その時々によって廃線の事情も異なるわけだが、地域にとって重要なインフラであるはずの鉄道がなぜ消えてしまうのだろうか。そして、これから日本の鉄道はどうなっていくのだろうか。今回、各地の廃線跡を実際に歩き、調査してきた小牟田氏に話を聞いた。廃線の歴史を紐解くと、鉄道の未来が見えてくるかもしれない。(※トップ画像:小松市内で定期的に保存運転が行われている尾小屋鉄道のディーゼルカー)

戦時中も鉄道が“休止”に

――『日本鉄道廃線史 消えた鉄路の跡を行く』を読んで驚いたのは、第二次世界大戦の真っただ中にも結構な数の路線が廃線になっていることです。不要不急の路線に関する議論の末に営業を取りやめた路線や駅がありますし、御殿場線のように複線を単線化した例もあります。

本書の読みどころの一つである廃線地図。年代ごとに廃線となった路線が示されている。(『日本鉄道廃線史』より)

小牟田:戦時中は深刻な物資不足に陥り、線路を軍事用に転用するため、軍事物資の輸送に使われない路線の線路をはがしたことがありました。また、鉄道の営業を停止すれば、その路線で働く人の労働力を他に回すことができる。あの手この手で労働力を捻出しようと考えたのでしょう。

――ただ、この時代は廃線ではなく“休止”という言葉を使っていた点が気になります。後々、復活させる意図もあったのでしょうか。

小牟田:そうですね。戦争に勝ったらもう一度元に戻すので、休止は一時的なものであるという建前はあったと思います。休止という表現なら、地元の人たちを納得させやすかったのかもしれませんね。

――実際に復活した路線はあるのでしょうか。

小牟田:房総半島を走る久留里線は、1944(昭和19)年に久留里駅~上総亀山駅間が休止されたものの、戦後に復活した例です。もっとも、最近になって、久留里線は営業成績が極端に悪化していることがJR東日本から公表されて、存続が危ういとのうわさが立っているのですが……。

「赤字83線」を選定

――戦時中の休止こそあったものの、明治時代に鉄道の敷設が始まってから、基本的に日本の鉄道網は拡大を続けてきたわけですよね。しかし、昭和30~40年代に入ると、本格的に廃線の議論が生まれています。

小牟田:赤字路線を廃止する議論が大々的に始まったのは、1968(昭和 43)年に「赤字83線」が選ばれたのが最初ですね。当時、国鉄が経営危機に陥っており、真っ先に問題視されたのがこれらの赤字路線だったのです。鉄道は大量輸送が特性なのだから、それに見合っていない路線は道路に切り替えるべきだ、という意見が出ました。もちろん国鉄全体が黒字になっていれば、このような議論は生まれなかったでしょう。

――1960年代は現在とは違い、日本の人口が増えていた時代ですよね。赤字を拡大させたのは、モータリゼーションなどが原因だったのでしょうか。

小牟田:道路の整備は一因でしょうね。マイカーの概念が生まれ、自動車で移動できるなら公共交通を使わなくてもいいという概念が、人々の間に広がっていきましたから。

――1963(昭和38)年に誕生した鉄道建設公団がローカル線を建設し続けたことも、赤字を拡大させた要因に挙げられています。

小牟田:本来、国鉄は独立採算制の公共事業体なので、営業成績を気にしなければいけません。ところが、鉄道建設公団が誕生し、営業したら赤字になる路線が国の予算で着工されていきました。鉄道を重視する地元の政治家の後押しなどもありました。そのため、ローカル線廃線の議論が起こる一方で、三江線などの新たなローカル線が建設されているのです。

田中角栄「ローカル線は赤字でもいい」

――ところが、1972(昭和47)年に田中角栄内閣が発足すると、廃線の議論が一転、下火になりました。国鉄側も時の政権に振り回されているように思います。

小牟田:田中角栄の考えは一貫していて、「ローカル線は赤字を出してもいい」と明言しているのです。その後も、ローカル線を巡る政治的な駆け引きは各地で起こりました。1972(昭和47)年、北海道の白糠線の延伸区間は、北海道出身の大臣が半ば強引に開業させてしまっています。白糠線はその後、1983(昭和58)年に全線が廃止されました。

――ローカル線を巡る迷走が、国鉄民営化の引き金を引いたのでしょうか。

小牟田:いいえ。私は、ローカル線が国鉄の存続を根本から脅かしたかどうかは、怪しいと考えています。むしろ、昭和40年代後半から50年代前半にかけて、国鉄の労働組合がスト権スト(ストライキ権奪還ストライキ)や遵法闘争を盛んに行い、顧客離れを招いたことのほうが大きな要因だと思います。スト権ストの影響で、貨物輸送もトラックへの切り替えが進みましたからね。

――当時、ストライキを繰り返す国鉄の労働組合の姿勢は、マスコミの批判の的になっていましたよね。

小牟田:国鉄の経営は様々な面で不利でした。運賃の値上げも自社の判断ではできず、国会の承認を経ないといけなかったのです。値上げを提案しても野党の反対で実施できず、ローカル線の赤字が回収できないジレンマに陥っていました。ただ、繰り返すようですが、必ずしもローカル線が国鉄の存立を脅かしたわけではないと思います。赤字ローカル線は全体の収支を見たら大きなものではないのに、象徴的な存在に扱われてしまったというのが実情ではないでしょうか。

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