「水木しげる以上に水木しげるを知っていた」関係者に聞く、“伝説のファン”伊藤徹が後世に与えた影響
■水木しげるも認めた日本一の水木ファンがいた
2023年に公開された映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』がヒットし、2024年には鳥取県境港市の「水木しげる記念館」がリニューアルオープンするなど、空前の水木しげるブームが起こっている。そんな水木を語る上で欠かせない、伝説のファンがいた。古書店「籠目舎」の店主で、2013年に亡くなった伊藤徹である。
伊藤は子どもの頃、『悪魔くん』を読んで水木作品の虜になり、ファンレターを出し続け、水木と交流を深めるまでになった。やがて、水木本人からも認められた日本一の水木ファンとして知られるようになる。『開運!なんでも鑑定団』にも水木しげるコレクターとして登場、そのコレクションを披露している。
ファンであるだけでは終わらなかったのが伊藤の凄さだ。水木の作品目録を作成したほか、絶版古書の復刻版の出版にも関与するなど、ファンの枠を超えた活動を展開した。博覧強記の水木研究家として名を馳せ、ファンの間では“水木しげるよりも水木しげるに詳しい”と言われるほど評価されていた人物であった。
伊藤は公私ともに水木と親しかったが、いろいろと晩年は“やらかし”てしまい、出禁を食らったとされる。それでも、後世の水木研究に与えた影響は計り知れないものがあるといえるだろう。筆者は今回、元籠目舎のメンバーで伊藤と親交が深かった岡本真一氏(54歳)にインタビュー。忘れられつつある伊藤の業績について話を聞いた。
■伊藤徹と接点をもったきっかけ
――岡本真一さんが、伊藤徹さんと接点を持ったのは何がきっかけだったのでしょう。
岡本:確か、「月刊漫画ガロ」1989年12月号だったと思うのですが、そこに掲載されていた『水木しげる画業四○周年』が刊行されるという告知を見て、慌てて購入予約の申し込みの手紙を出したのが、伊藤さんと最初にコンタクトを取った出来事でしたね。翌年早々から伊藤さんと文通を開始し、水木先生の情報をいろいろと教えていただきました。
――手紙を使ったやり取りが時代を感じます。その後、籠目舎に入ったのはいつ頃なのでしょうか。
岡本:いつの間にか自然に入っていた感じなので、今でもあまり自覚がないのですが、メンバーになったなと認識したのは1991年の初春あたりでしょうか。『水木しげる叢書別巻1 水木しげるキャラクターグッズカタログ』の付録「水木しげるの妖怪学校」オリジナル版(注:大阪の菓子メーカー・江崎グリコのフーセンガム『ギャグメイト』『ギャグシー』販促用のミニカタログで、水木しげるがほとんど一人で描き上げた貴重な作品。1983年発行)を、復刻用に資料提供したところ、採用されたのがきっかけです。ちなみに、このグッズカタログは代金先払いで付録だけ先に送付されて、肝心の本がいつまで経っても出なかったんですよね。
――当時、伊藤さんは水木ファンや漫画古書ファンの間でどのような存在でしたか。
岡本:私の場合、伊藤さんと接点を持つまで、まわりに漫画古書ファンや水木先生のファンが皆無だったので、どのような存在だったかまったく知らなかったんですよね(笑)。1991年7月21日、宝塚ファミリーランドで水木先生のサイン会があったのですが、何せ大昔のことなので記憶が曖昧になっていまして、しかも今、手元に記録もないので、もしかしたら翌年だったかもしれませんが(笑)、その時に籠目舎の他のメンバーの方々に初めてお会いして、傍にいるうちに「伊藤さんって何か凄い人なんだな」と実感しました。
――サイン会に集まったメンバーも濃い人ばかりだったのでしょうね。
岡本:この時のサイン会には、のちに「関東水木会」のメンバーになった活動弁士の坂本頼光さんが参加していました。後年、ご本人から直接伺った話ですが、坂本さんは当時小学5年生で、神戸市にあった水木先生の公認ファンクラブ「水木伝説」の会員でした。調布駅前の水木プロに頻繁に出入りしていて、水木先生のお母様の琴江さんに気に入られていたそうです。