杉江松恋の新鋭作家ハンティング 機械の体を手に入れた〈わたし〉の家族史『ここはすべての夜明けまえ』
本作を読んだ人がダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』(ハヤカワ文庫NV)を想起するのは文体からの連想だろう。同作のひらがなで書かれた文体にはもちろん意味があった。『ここはすべての夜明けまえ』は同作に外見上は酷似しつつ、まったく違った意図で書かれた文体によって、読者の心を制御していく。〈わたし〉の心は文体にそのまま表されているのである。滑るように早く語れることにはそうする価値があり、注意深く言及を避ける事柄には〈わたし〉の心をひるませるものがある。重要な役割を担って登場するシンちゃんという男性は〈わたし〉の甥にあたる人物だが、彼について語ることが中心となる最後の数ページは、早瀬をゆく水のような勢いで書かれており、そこにはまったく漢字が使われていない。流れる思考をそのまま書き留めたい〈わたし〉の心がそうした形で表現されているのだ。
主人公はまったく漢字を使えないわけではなく、抽象的な概念もきちんと理解できる知力を持っている。その証拠に、小説の後半で〈わたし〉を理解しようとして接近してくる人々が話す言葉は漢字の多い、一般的な文章で記述されているのである。その集団に属する、トムラさんが〈わたし〉に言う。
—— さんに手を差し伸べるのは、私たちが考える正義を遵守するためです。弱者を助けることは、私たちの最優先事項です。そうすることで、私たちは自分たちのつながりをより強固にできます。言い換えれば、私たちのためでもあるのです。
利他的行為によって初めて自身の存在意義を見出す。他人とつながることでしか自分の位置を確認できない現代人の心性を、トムラさんは背負った登場人物だ。この優しさは小説全体を包みこむものである。主人公もまた、自分を愛することが難しく、自己中心的にふるまうことができない人間だ。
トムラさんの言葉で主人公の名前を と略したのは誤字ではない。小説内で〈わたし〉の名前は明かされず、どうしても呼びかけなければならないときはこのように空白で表現されている。自分を示す言葉を〈わたし〉は書くことができないのだ。自分が自分であることに自信がある人はいる。我思う故に我ありというように、自分を中心にして考える人もいる。〈わたし〉はそうではないということだ。空白を抱えて漂っていくしかない〈わたし〉たち。
同時代を生きる人々が、言葉にしたくてできずにいた気持ちを、本作は主人公による100年後の述懐という形で表現したのである。物語の終わりに〈わたし〉は、これからしたいことを語る。さまざまなゆめがある。でもまずは「わたしはわたしと、ちゃんとともだちになるところから」。世界に〈わたし〉の居場所ができることを心から望む。