鈴木涼美が振り返る、2000年代初頭の若者文化 「退廃的だった青春をなかったことにはしたくない」

鈴木涼美、00年代を振り返る

 鈴木涼美にとって三冊目となる小説『浮き身』は、40代を目前にした〈私〉が、大学時代に暮らしていた歓楽街へと赴き、かつて出入りしていた「十一階の部屋」の記憶をなぞる物語だ。セックス、ドラッグ、バイオレンスの「匂い」が漂うその退廃的な情景は、あまり振り返られることもないが、しかし2000年代初頭に確かに存在したものだろう。1990年代の狂騒と2010年代の激動の狭間に、歓楽街で青春を過ごした若者たちはどんな価値観を抱いていたのか。著者の鈴木涼美に振り返ってもらった。(編集部)

記憶を想起させる「匂い」

鈴木涼美『浮き身』(新潮社)

ーー『浮き身』はもう少しで40代になる主人公が、2000年代初頭に19歳でキャバクラ嬢をしていた頃に、当時溜まり場になっていたマンションで過ごした日々を振り返る青春小説です。社会全体が潔癖症のようになったコロナ禍の時期と、SNSもなければ繁華街もあまり浄化されていない混沌とした時期とを対比的に描いています。

鈴木:『浮き身』の主人公は私と同じ生まれ年なので、『ギフテッド』(2022年7月)や『グレイスレス』(2023年1月)よりも私小説的だと思います。私自身が2000年代初頭を懐古的に捉えているというか、「あの頃の方が楽しかったな」と思っているところがあったので、初稿では現代を描くラストシーンが暗い感じになってしまいました。もう少し、過去を抱きしめつつも、これから先の人生と向き合うような温かみのあるラストにしようとした結果、全体的に修正することになり、書くのに時間がかかった小説でもあります。

 とはいえ、19歳の気持ちに戻ってあの時代を描くのは楽しかったです。当時はすごく身体的に物事を捉えていて、何も考えずに色んなことができました。一方、年齢を重ねると若い頃には持っていなかった言葉を獲得するので、本作の文体はあまり抑制的ではないというか、理屈っぽくグダグダと文句を言う感じになっています(笑)。年齢を重ねるということの意味も、本書で書きたかったことの一つかもしれません。

ーー溜まり場となるマンションは、知人がオープンするデリヘルの待機所になる予定となっています。この時点ではなんでもない場所で、主人公もなんとなく居座っている。若い男女が酒を飲んだり薬物を摂取したり、あまり深く考えることもなくセックスしたりする。退廃的な青春の情景が印象的でした。

鈴木:雰囲気としては、村上龍さんの『限りなく透明に近いブルー』などの青春小説を意識したところもあります。閉ざされた空間の中に男と女がごちゃごちゃいて、どことなく小汚い感じが出るように描写しました。今はあまりそうではないのかもしれませんが、この頃の若者は意味もなく溜まるもので、センター街に座ってみたり、友達の知り合いの家に集まってダラダラと過ごしたりする時間はすごく大切でした。SNSもない時代だったから、街のどこかに紛れて同世代とコミュニケーションしていたのかもしれません。

 舞台となっているマンションは地上からも断絶された空間で、誰かの家でもなければ職場でも学校でもなく、気兼ねなく過ごすことができる。この空間の雰囲気は映像や音でも表現できると思いますが、本作では何よりも匂いをリアルに描くことを心がけました。主人公たちの青春を追体験してもらうには、メディアには記録できない「匂い」をできるだけ詳細に書くことで表現するのが効果的だと考えたんです。ホストクラブに行ったことがない人でも、資料を見て絵は描写できるかもしれませんが、匂いは再現できないですよね。だからこそ、匂いについて書くことは、本当にそこにいた証になる。また、過去を振り返る小説なので、その意味でも匂いの描写は有効だと思いました。キツすぎる香水だとか、タバコだとかゲロだとか、「臭い」の描写ばかりになってしまいましたが(笑)。

ーー記憶と嗅覚は強く結びついていると言いますね。

鈴木:女性は特にそうなんじゃないかなと思います。以前、AV監督からとあるAV女優についての印象的なエピソードを聞いたことがあるんですけれど、現場にはアラミスの香水とスルメを必ず用意していたそうなんです。というのも、その女性が初体験をしたとき、相手がアラミスの香水をつけていて、一緒に飲みながらスルメを食べていたらしく、その匂いの記憶が性的な衝動と強く結びついているんですって。だから、アラミスとスルメが近くにあると、彼女はすごく良い演技をする(笑)。男性は視覚的に興奮するという人がほとんどだと思うし、だからこそAVが成立するのでしょうが、女性は声や匂いにフェティシズムを感じる人が多いと思います。

ーータバコの匂いについての描写も印象的で、若かりし頃に溜まっていた部屋やクラブの暗がりを想起させられました。

鈴木:最近はタバコの匂いがこもった場所がどんどんなくなっていますが、小説の世界では今もタバコを吸う登場人物が少なくないように思います。タバコは小説的な小道具として便利なんですよね。仰るように記憶を想起させやすいというのもありますし、その場にとどまる理由にもなるし、ギュッと揉み消すシーンでイライラを表現したりなど感情表現もできる。以前にとある女性小説家の方とお話しした際、小説の小道具としてタバコを使うからという理由で、年に一度だけ喫煙するという方もいらっしゃいました。

夜の世界の差別意識

ーー『浮き身』の主人公もまた、『ギフテッド』や『グレイスレス』と主人公たちと同じように、性産業のすぐ側に身を置きながらも、かろうじて身体を売っていません。前二作とはどんな違いがありますか。

鈴木:私は法律や倫理でNOとされているものとOKとされているものの際に触れてみたいという願望があって、売春する側としない側を隔てるものは何かを探りたいんです。『ギフテッド』の主人公は、母に付けられた火傷跡を隠すためにタトゥーを入れているから脱がないという選択をしていて、『グレイスレス』の主人公は、AV現場で化粧師をしながら「なぜ自分は脱がないのか」を自問していました。良くも悪くも宗教的な制約があまりない日本は、貞操観念が揺らぎがちなので、どんな女性でもちょっとしたきっかけ次第で売春婦になる可能性があると思っています。

 『浮き身』の主人公の場合は、キャバクラ嬢なので身体こそ売っていないけれど、倫理観は低くて、溜まり場に集まっている男たちと簡単にセックスしてしまいます。だけど、彼女は「最後に売れるものがあることが大事」だと考えていて、風俗嬢にはならないと決めている。どこかに風俗嬢への差別意識があって、とどまっているのが今回の主人公です。実際、ホストクラブでは風俗嬢なのにキャバ嬢だと偽って遊んでいる子が結構いて、そこにはやはりコンプレックスがあるのだと思います。

ーー『浮き身』の主人公は少し冷淡なところもありますね。

鈴木:『ギフテッド』と『グレイスレス』の主人公は、なんだかんだ言って性格が良い子たちなんです。ギリギリのところで生きてはいるけれど、親や同性に対する情けがある。でも、『浮き身』の主人公はちょっと嫌な性格です。でも、だからこそ共感できる人も多いんじゃないかな。特に彼女が「ポンちゃん」と呼ばれている風俗嬢へ向ける眼差しは、わかる人にはわかると思います。

 ポンちゃんは、ポン中(ヒロポン中毒)から付いたあだ名で、実際に薬物をやっているのかどうかは描かれないけれど、なんだか会話が噛み合わなくて、溜まり場にいる連中からも見下されている子です。彼女は、私がキャバクラで働いていた頃に出会った子をモデルにしています。おそらく2回くらいしか会ってはいないんですけれど、今も生きているのかどうかがすごく気になっていて……。ちょっと一線を越えているというか、普通に生活するのも危うい感じで、運が悪ければ若くして死んでしまうようなタイプ。もちろん、主婦とかになって元気に生きている可能性もあるし、そうあって欲しいですが、彼女がちゃんとしている姿はやはり想像し難い。おそらく、夜の世界で生きてきた人なら、誰もが思い当たる節があるような女の子だと思います。

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