手塚治虫「戦争」を描いた傑作短編「大将軍 森へ行く」狂気の中で人間は“心”をどう取り戻すのか
「終戦の日」にちなんで、手塚治虫が「戦争」を描いたある作品を紹介したいと思う。
周知のように、手塚治虫といえば、あらゆるジャンルの漫画を描いた巨匠中の巨匠だが、初期の『来るべき世界』から円熟期の『アドルフに告ぐ』にいたるまで、戦争をテーマにした作品も少なからず遺している。
今回紹介する「大将軍 森へ行く」という短編もまた、そんな手塚の戦争物の傑作の1つといっていいと思うが、同作は、単発の読切ではなく、『メタモルフォーゼ』という「変身」をテーマにした連作シリーズの1編として描かれたものである(「月刊少年マガジン」1976年8月号掲載)。
※以下、「大将軍 森へ行く」の内容について、やや詳しく触れています。同作を未読の方はご注意ください。(筆者)
「大将軍」が最後に守ったものとは?
「大将軍 森へ行く」の主人公は、大日本帝国陸軍の名将・雨月大将である。太平洋戦争末期のあるとき、ベトナム上空で敵機に撃墜された彼は、奇跡的に一命をとりとめる。しかし、墜落したのは恐ろしい獣たちがうようよいるジャングルの奥地であり、雨月大将は安全な場所を探して彷徨(さまよ)い続けた挙げ句、ある廃村の近くで力尽きて意識を失ってしまう。
そんな彼を助けてくれたのは、謎めいた若い男女だった。男の名はブルウ、女の名はニヤンといった。
2人はその村の生き残りだと思われたが(かつて村にいた他の住民たちは、2年前、どこかの国の軍隊により虐殺されたのだという)、雨月大将はしだいに、自分のことを父親のように慕ってくれる彼らのことを、本当の息子と娘のように思うようになっていく。
実はブルウとニヤンは恋仲であり、そのことに気づいた雨月大将は、仲人になってやるからすぐに結婚しろという。2人は喜ぶが、結婚するには、いまは離れた場所に立っている2本の木を寄り添うように埋め直す必要があるのだという。雨月大将は奇妙な習わしだと思いながらも引き受け、ひと月かけてその仕事を成し遂げる(さらには、仲人だけでなく、見よう見まねで神職の役も務め、2人の婚儀を行う)。
と、そんな矢先のことだった。突然、日本軍の兵士たちが村に現われ、この地に作戦本部を築くと告げたのは。むろん、雨月大将は即座に反対するが、兵士のひとりがいったある言葉が彼を一瞬戸惑わせる。「このあたりの住民の伝説でありますが、この森で、年おいた木が夜な夜な人間に姿をかえて、人の精気をすいとり、そのからだを自分のこやしにしてしまうそうです」
そういえば、ブルウとニヤンが姿を現わすのは、なぜか決まって夜ばかりであった。彼らは魔性の存在なのか……。
雨月大将はいったん兵士たちを追い払うが、その夜、ブルウは自分たちの正体があの2本の木であるということを認める――「知ってしまったのですね。わたしたちの正体を」
雨月大将はこう答える。「それがなんだというんじゃ。わがはいはおまえたちの父親がわり、それにかわりはない」
一方、ふたたび村に戻ってきた日本軍の兵士たちが、雨月大将に投降を呼びかける(兵士たちは彼が“乱心した”と思い込んでいるのだ)。しかしそれに応じれば、やがて村は日本軍の作戦本部となり、せっかく結ばれた2本の木――すなわち、ブルウとニヤンは伐り倒されてしまうことだろう。
雨月大将は静かに抜刀し、守るべき者たちのために最後の戦いに向かっていく――。
1本1本の木にも“心”が宿っている
凄い物語だ。手塚自身が書いた「解説」によると、この作品は、膨大な仕事を抱えたまま訪れたアメリカのホテルで、半日ほどで描いたものだそうだが、まさに追いつめられた状況でしか生まれない傑作という他ないだろう。
いずれにせよ、本作で手塚が描きたかったのは、1本1本の木にも、“心”が宿っているということだろう。それはあらためていうまでもなく、「1人1人の人間」のメタファーでもある。
そう。ブルウたちと最初に出会った頃の雨月大将は、「わが日本軍は正義の軍隊だっ」とか、「この戦争は日本が正しく、わるいのは敵なのだっ」などと豪語していたのだが、最後には、「わしの目の黒いうちは、日本軍にここへはふみいれさせんぞ!」というまでになっている。
このどちらが本当の雨月大将かといえば、むろん後者だろう。つまり彼は、ジャングルでの極めて“人間的”な暮らしの中で、ようやく“個人”を取り戻したのだ。しかし、誰もが心優しい森の精霊たちと出会えるとは限らない。「戦争」という名の集団的な狂気は、容赦なく、1人1人の人間の心を踏みにじっていくのだ。
何かと世界がきな臭くなってきている昨今、そんな“恐ろしいこと”が描かれている本作を、機会があればぜひ読んでほしいと思う。
※本稿で引用した漫画の台詞は、原文の一部に句読点を打ったものです。(筆者)