栗本 斉の『モンパルナス1934』レビュー 「歴史的価値と娯楽性を見事に両立させた、最高にユニークなストーリー」
合唱コンクールの定番曲「翼をください」で知られる赤い鳥、言わずと知れたユーミンこと荒井由実、細野晴臣+坂本龍一+高橋幸宏という3人の天才集団であるイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)、etc。これら日本の音楽史に残るアーティストたちを発掘し、世に出したのが、作曲家でありプロデューサーでもあるアルファミュージックの村井邦彦だ。彼が小説を書くという噂を聞いた時は、てっきり自身の自伝的内容かと思い込んでいた。しかし、リアルサウンドで連載がスタートし、その物語を読み始めて驚いた。なんと、第二次大戦前のフランスを舞台にした壮大なストーリーだったからだ。
村井邦彦は1945年生まれなので、本書のタイトルにある『モンパルナス1934』の年代にはまだ生まれておらず当然リアルではない。ではなぜ、この時代を舞台に小説を書いたのか。それは彼のメンターである川添浩史(本名は川添紫郎)が主人公に設定されているからである。川添浩史は、国際文化交流のパイオニア的存在であり、多数の文化人が集まったレストラン「キャンティ」の創業者という一面を持つ人物だ。キャンティにひんぱんに出入りしていた村井は、敬愛する川添のことをしっかりと記録しておきたかったのだろう。しかし、本書は単なるドキュメンタリーではない。それどころかエンターテインメントとして成立しており、めっぽう面白い小説に仕上がっているのだ。日本経済新聞の編集委員である吉田俊宏との共同作業という形で生み出され、丁寧に取材を重ねた上で事実に基づいて書かれており、史実に基づいた説得力のある小説が生まれたのである。
物語の中核を成すのは、タイトル通り1930年代のフランスだ。マルセイユに向う船上での富士子(架空の人物らしい)との出会いからカンヌへ向かうまで、さっそくアクション映画さながらの逃走劇が描かれる。その後も、カンヌからパリへと舞台が変化するが、10数本のエピソードごとに様々な事件が起こる。時代は不穏な第二次世界大戦前。当然、国家間の不安定な関係が通奏低音のように響いているのだが、そういった世相を醸し出しつつも、川添が出会う人々が実に魅力的な人物として登場する。ポール・ヴァレリー、ロバート・キャパ、ゲルダ・タロー、ジャンゴ・ラインハルト、岡本太郎、坂倉準三、諏訪根自子、吾妻徳穂といった国内外の著名人から、フィクションとして描かれる黒人のラグビー選手やアメリカ人のファシストも物語では非常に重要な役割を担っている。そしてもちろん、川添の伴侶となるピアニストの原智恵子、そしてタンタンこと梶子とのロマンスもあり、人間関係と国際情勢が絶妙に交差しながら第二次大戦、終戦、そして戦後へと突き進んでいく。
名場面はたくさんあるが、リヨン駅から白タクに乗って謎の追っ手から逃げるシーンでは、インテリの白タク運転手との軽妙な会話がスピード感をさらに増す感覚は印象的だ。また、鮫島という男が撮影スタジオに逃げ込んできたが、隠し扉を開けてかくまうなんていう場面もあり、まるでスパイ映画さながらの展開には息を飲む。そうかと思えば、パリ万博でのエピソードには、ピカソのゲルニカやオリビエ・メシアンの電子音楽などもしっかりと組み込まれているし、後半に登場するアヅマカブキの公演の様子は、当時の文化輸出がどのように行われていたのかがわかる貴重な記録にもなっている。本書は380ページを超えるボリュームがあるのだが、あまりにも面白くて一気に読んでしまったくらい、とにかくワクワクさせられるのだ。