田家秀樹の『モンパルナス1934』レビュー 「志」や「願い」がバトンリレーのように受け継がれていく

田家秀樹の『モンパルナス1934』評

 あのレストランにこれだけ歴史性に富んだ物語があるとは誰が思っただろう。

 1960年の開店以来、東京の新しい文化の発信地として伝説化している飯倉片町のイタリア料理店”キャンテイ“である。

 この物語の主人公は”キャンテイ“の創業者・川添浩史。彼が東京でレストランを開くまでの様々な出来事や人物ドラマを史実に添って書かれた歴史フィクションであり小説である。

 書いたのは作曲家・編曲家・プロデューサーの村井邦彦。彼が69年に設立した音楽出版社、アルファーミュージックは赤い鳥、荒井由実、吉田美奈子、YMOなどを送りだし、洋楽的な新しい日本のポップスの源流となった。作曲家としては「翼をください」や「虹と雪のバラード」などのヒット曲としても知られている。

 彼の盟友のプロデューサー、川添象郎は、物語の主人公、川添浩史の息子だった。なぜ彼がこの物語を書くようになったのかはエピソード1「カンヌ・1971年1月」にある。前年に57歳でなくなった浩史の妻・川添梶子、愛称タンタンが「シローの歴史を調べてよ」「いつか必ず、約束よ」と言い残したことから始まっている。

 村井はカンヌで行われる世界の音楽出版社の展示会、MIDEMに傷心の彼女を誘っていた。そこは二人の思い出の場所だった。

 タイトルになった「1934年」は、当時は「紫郎」という名だった浩史が留学のために初めてフランスを訪れた年だ。なぜ彼が留学することになったのか。「エピソード2・マルセイユ1934」で明かされるそのこと自体が思いがけないものだった。

 川添紫郎は幕末の志士で明治維新の立役者の一人であり政治家や実業家として名を馳せた後藤象二郎の孫だ。名門の血を引く彼は学生時代に左翼運動に加わって逮捕され、運動から身を引くという条件でフランスに留学。日本の特高警察にも尾行されていた。

 彼がフランスに滞在していたのは1934年から1939年までだ。ヨーロッパはスターリンのソビエトと対立していたヒットラーのナチス・ドイツがポーランドに侵攻、それに対してイギリスとフランスが宣戦布告するという激動期。更に、国際連盟を脱退し国際的に孤立した日本がドイツやイタリアと三国同盟を結び第二次世界大戦に突き進んでいく。「ヨーロッパから見た日本」という意味でも貴重な歴史小説だろう。

 「戦争」という大波に翻弄される若者たちの夢や葛藤。戦火が激しくなるにつれ「自由」が奪われてゆく様はまさに今の世界だ。

 ともかく驚くのは登場する人物の多彩さだ。更にその人の背景が具体的に書きこまれている。アンドレ・マルローやポール・ニザン、ジャン・コクトーやポール・ヴァレリーなどのフランスの詩人や作家、坂本龍馬の子孫やまだ無名の岡本太郎、後に紫郎の妻になるピアニストの原智恵子などと出会ってゆく。「エピソード・6」には「こんなサロンが東京にあればいい」という言葉もあった。

 象徴的なのはカンヌで出会ったアンドレ・フリードマンというユダヤ人のカメラマンだろう。家賃を払えずにカメラを質に入れてしまい「毎日新聞」から借りたライカを使って「フォトジャーナリスト」の道を歩み出した紫郎の親友が後のロバート・キャパだ。彼は1954年、東京で「メーデー」の撮影を終えてから向かった最後の撮影地、インドシナ戦線で亡くなった。

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