『鎌倉殿の13人』貴族社会の価値観とは? 百人一首をめぐる小説に見る、雅な男たちの生き様
最終回に向けて俄然盛り上がっているNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(NHK総合)。そのクラマックスは、やはり「承久の乱」である。日本史上初めて、朝廷と武家政権のあいだで起きた、大規模な武力衝突だ。とはいえ無論、『鎌倉殿の13人』は、北条義時(小栗旬)・政子(小池栄子)を中心とした「鎌倉側」の視点を中心に描かれた物語である。対する「朝廷側」――後鳥羽上皇が「治天の君」として君臨する「京」の貴族社会は、果たしてどのような価値観のもと、どんな人々によって動かされていたのか。それを知る上で格好の小説がある。周防柳の『身もこがれつつ 小倉山の百人一首』(中央公論新社)だ。
なぜ、ここで「百人一首」が出てくるのか。「歌がるた」として現在も親しまれている「百人一首」が生まれたのは、この頃――鎌倉時代の初期とされているのだ。それをたったひとりで選出し、後世に残る和歌の「美」の基準を作り出した人物。それが本作の主人公である藤原定家なのだ。実は『鎌倉殿の13人』の主人公である北条義時(1163‐1224年)とは、ほぼ同世代であり、直接対面することはなかったものの、同時代の「京」で活躍した人物である定家(1162‐1241年)。本作『身もこがれつつ』は、彼とその朋友であり歌人でもある藤原家隆、そして後鳥羽上皇という3人の男たちの複雑な関係性を通じて、当時の「京」の貴族社会を描いた小説なのだ。
藤原北家の傍流である御子左家の次男として生まれた定家は、父・俊成の手ほどきのもと、若い頃から和歌の才をいかんなく発揮する。やがて「恋歌の天才」「美の使徒」と称されるようになる定家は、同門の親友である家隆ともども、京の歌壇でめきめきと頭角を現してゆくのだが……そんな彼の胸中には、積年の野心があった。「歌人」の社会的地位を向上させることだ。定家は言う。
「われはまつりごとに興味はないし、その才もない。けれども、まつりごとに関わる資格のあるほどの歌人にはなりたい。(中略)われはわが御子左家が重代の歌道師範として、永劫高い家格で受け継がれていくよう刷新したいのだ。それを実現してこそ、不遇に終わった幾百幾千の貫之が報われる」
「貫之」とは、「歌仙」として崇められながらも、その官位は決して高いものではなかった「紀貫之」のことだ。そんな彼の言葉を、いつもとなりで優しく聞いてくれる家隆。決して美男ではなく、気性も激しい定家とは対照的に、見目麗しい優男でありながら、どこか世の中に対してあきらめたところがある家隆は、自らの野心を熱弁する定家に、こう言うのだった。「私はおぬしのそういうところが好きだよ」と。「匠の歌作り」である定家と「天性の歌詠み」である家隆――その容姿や性格はもちろん、歌風も正反対である2人は、やがて『新古今和歌集』の選者に加わることになる。にわかに和歌に興味を持ち始めた若き「治天の君」、後鳥羽上皇の命を受けて編纂される勅撰和歌集である。
しかし、その編纂は、過去の勅撰和歌集とは、少々事情が異なっていた。後鳥羽上皇自らが、その選者のひとりになっているのだ。20歳になる前に譲位し院政を敷くなど、若くして政に才覚を表すと同時に、武芸や蹴鞠にも秀でるなど、多芸多才な「カリスマ」であった後鳥羽上皇。彼は、突如のめりこむように和歌の道に興味を持ち、定家らに教えを乞うようになるのだった。といっても、「獲物を狙う猛禽のような激しさ」を持つ上皇は、半ば挑みかかるように定家に問う。「歌の心」とは何ぞやと。恐縮しつつも定家は、自らの信念を持って次のように応えるのだった。
「歌の心とは、この国に一千年積もり積もったみやび男みやび女の思いの重畳でございます。その幾千万の思いを水底から拾いあげ、そのいちばん上におのれの思いを載せて、そっと水面に浮かべる。逆の言い方をすれば、ひとひらの言葉の下に、幾千万のみやび男みやび女の思いを踏みしめる。これが有心の体の神髄でございます。ゆえに本歌取りが肝要なのであり、これぞ王朝の貴族の心を脈々と受け継いでいく方法なのでございます」