朝井リョウが突きつける、承認欲求という大敵ーー認められたいという欲望の厄介さ
戦わなくていい時代に、僕らは何と戦い続けるのか
平成という時代は、どんな時代だったのだろう。よく言われるのが、戦争のない時代だったということだ。大きな災害には何度も見舞われたが、街が爆撃によって焦土と化したり、市井の人々が戦場に駆り出されたりするようなことはなかった。平和だった、と言っていいのかもしれない。
争いは、暮らしからも排除された。ナンバーワンよりオンリーワンと流行歌は高らかに掲げ、徒競走は手をつないでみんなでゴールし、テストの順位表が廊下に貼り出されることはなくなった。
男女平等に向けて一歩前進した時代でもあった。男らしさや女らしさという言葉を軽率に使う人は白眼視され、代わりに体育会的な気質や集団性は「有害な男らしさ」と名づけられるようになった。
雄介は、そんな時代の亡者だった。昔からずっと人と競うことが好きで、一番になることを張り合いとし、因習的な男らしさに自分の美学を見出していた。けれど、時代によってその杖をすべて外された。だから雄介は自力では立っていられなくて、必死に新しい杖を探そうとする。そうして次々と戦う相手を見つけ、戦う理由をねじ込み、自分を奮い立たせる。
「何かとの摩擦がないと、体温がなくなっちゃうんだよ」
そう雄介が苦しそうに吐き出したとき、胃の底に漂っていた曖昧な粒子が結合し、羞恥という感情となって立ち上がるような感覚に見舞われた。自分も、こんなふうに生きていた。誰かと競うことで、何かをなし遂げようとすることで、自分という人間の価値を確かめようとしていた。
だって誰かに認めてもらえないと、自分を認められないから。何かを打ち倒すことでしか、生きている実感を得られないから。人は戦い、戦い、戦い続ける。
平成は終わり、令和という新しい時代を僕たちは生きている。時代の風はますます弱い人に優しい。生きがいなんてなくていい。夢なんてなくていい。他人と比べる必要はない。ありのままの自分でいい。そんな柔らかいメッセージが、この世界に溢れている。
でも、その優しさに身を切られる人もいる。温かい毛布をかけられるほど、重圧になる人もいる。だから、生きることは難しい。
もうすぐ令和4年が終わる。もし雄介や与志樹がこの世を生きていたら、今この時代をどんなふうに過ごしているだろうか。巷に蔓延る陰謀論に入れ上げ、しきりにハッシュタグをつけて、世界を変えようと奮闘しているかもしれない。あるいは戦いのステージから降り、穏やかな暮らしの中に小さな幸せを見つけられるようになっているのかもしれない。
でもきっと心臓の裏側で爪を立てるように暴れ出す承認欲求から逃れることはできないだろう。何とも戦わなくていい時代に現れた大敵が、人に認められたいという欲望なのだ。