宗教2世が自ら「人生のハンドル」を握るためにーー信仰と自由意志を考える

宗教2世「人生のハンドル」を握るために

親から自由になるのは宗教2世じゃなくても難しい

 本書は宗教2世をめぐる物語だが、これらの物語を通して見えてくるものは、決して2世だけの問題ではない普遍的なものだ。

 親子関係というものは、宗教を抜きにして大きな問題となることがある。親の教えに縛られて、不自由だったと感じたことのある人は多いだろう。子どもの頃、世界のほぼ全ては親を通して教えられる。小さな子どもにとっては、「世界=親」との関係と言えるような時期すらあるだろう。そういう時期に植え付けられた思想は深層意識となって、人間の思考や行動を縛ることは普通に起こることだ。

 その意味では、宗教を挟まずとも、誰にとっても親から自由になるのはとても難しいことだ。

 だが、2世の人々の苦しみや葛藤を安易に普遍化するのも理解を浅くするだろう。宗教という、心の内面に深く踏み込むものが介在するからこそ、彼ら・彼女らの葛藤は一般的な親子関係がもたらすものよりも複雑なものとなっていることを、本書はわかりやすく教えてくれる。

 両親の結婚を「真のお父様」が決めた家庭に生まれた女性は、自由恋愛を認められずに苦しむ。しかし、実家を離れ一人暮らしをして自分の生き方を模索する中で、自分のあり方を確立していく。

「宗教がなかったら出会わなかった両親、生まれなかった私。だけど宗教を離れても生きていける。神の子ではないただの私を、世界はちゃんと受け入れてくれたから」(P60)

 こうした結論までたどり着く過程には、はかりしれない葛藤と苦しみがあったことが綴られる。宗教によっては、一般的に常識と言えることが教義で制限されていることがある。親に宗教絡みの学校に行かされ、学歴の問題で宗教から離れたくてもどうにもならない状況に追い込まれてしまう。

「何もさせてくれなかった、何もできないようにさせられた。あなたたちのせいじゃない。何も持ってないよ、誰も助けてくれないよ、もう生きていく方法がないよ」(P93)

 自由な意思で社会の中で試行錯誤しながら、人は生きる力を身に付けていくものだが、2世の中には、親からの強い縛りのせいで社会の中で生きていく力を奪われる子どもがいるのだ。そして、2世にとって難しいのは、自分に立ちはだかるものが、親のエゴなのか、信仰なのか、あやふやになりがちな点だろう。

「何が宗教の教えで、どれが母の考えで、どこからが私? だんだんわからなくなっていく」(P105)

自由意思はどこにあるのか

 だが、宗教に限らず、自分の考えをゼロから築き上げた人間などいないだろう。自分の意思や考えは100%オリジナルではなく、必ず誰もが何かの影響を受けている。親や学校、国家、社会情勢の中で日々、様々なものに翻弄されて人は「自分の考え」を変えていく。

 そう考えると、人間の自由意志とはどこに存在するのか、本当は誰にもわからないものではないだろうか。

 カルト宗教で不幸になった人もいれば、幸せになった人もいる。一般社会に生きる私たちは、基本的にカルトで幸せになれるとは考えない。しかし、それは多くの人がそのように教えられてきたからではないか。そう考えると、私たち自身、一般社会の常識的な考えから自由になっているとは言えないかもしれない。

 自由かどうかは、本質的に測ることができない。結局のところ、第4話の主人公が最後に気づく、「人生のハンドルを自分で握る」(P78)実感を持てるかどうかにかかっているのではないか。

 「人生のハンドル」という言葉は、大変に示唆的だ。経済的な理由で人生のハンドルを握っている実感を持てない人だっているだろう。エリートとして育てられて名門進学校に行くことを余儀なくされた子どもも、人生のハンドルを握れているとは思えないかもしれない。この世界には、人生のハンドルを握れずに苦しんでいる人は、実は大勢いるのではないか。

  親子関係は自転車乗りの練習に例えられるかもしれない。小さい頃には補助輪をつけたり、親が後ろから支えてあげながら自転車に乗る練習をする。しかし、どれだけ危なっかしくてもハンドル自体は本人に握らせないと、練習にならない。そうして、ある時期がきたら補助輪も親の支えも必要なく、自分で自転車をこぎ出すことができるようになっていく。親だろうと誰だろうと、ハンドルを奪ってはいけないのだ。

  本書に描かれた2世の人々は、人生のハンドルを親に奪われていたのだ。そんな2世の人々の葛藤は、誰もが直面し得るものであり、人間の自由と意思、そして幸福についての本質的な問題を問いかけている。

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