戦国時代を描いた2つの直木賞受賞作、今村翔吾『塞王の楯』と米澤穂信『黒牢城』の対極的アプローチ
直木賞を二作品が同時受賞することは決して珍しいことではないけれど、その二作品がいずれも「歴史小説」であること、さらには同じ「戦国時代」を描いた小説であることは、かなり珍しいことだったのではないだろうか。第166回直木賞の受賞作となった、今村翔吾の『塞王の楯』(集英社)と米澤穂信の『黒牢城』(角川書店)のことである。
天正元年(1573年)の「一乗谷城の戦い」に端を発し、慶長5年(1600年)の「大津城の戦い」でクライマックスを迎える『塞王の楯』。一方、『黒牢城』の舞台となるのは、天正6年(1578年)から1年以上にわたって続いた「有岡城の戦い」だ。いずれも「籠城戦」を「攻め手」ではなく「守り手」の側を主体として描いた作品である。ちなみに、石垣作りの職人集団「穴太衆(あのうしゅう)」の若頭・匡介を主人公とする『塞王の楯』に対して、『黒牢城』の主人公は、荒木村重だ。織田信長に反旗を翻したことで知られる、実在の戦国武将である。
両者を読み比べてみたところ、近接しているのは、その「時代」だけではなかった。『塞王の楯』の序盤に、「穴太衆が如何に鉄壁の石垣を拵えようと、愚将が守れば用を成さない」という一節がある。その「愚将」の例として挙げられるのが、先の「有岡城の戦い」で敗れるどころか、すべてを捨てて逃げ去った「荒木村重」なのだ。しかし、その内実は、どうだったのか。武功はもちろん「利休十哲」のひとりに数えられる「茶人」でもある村重は、本当に「愚将」だったのだろうか。そのひとつの「答え」が、『黒牢城』の中に描き出されているのだ。
『黒牢城』のキーパーソンとして、もうひとり重要なのは、小寺(黒田)官兵衛である。羽柴秀吉の命を受け、村重を懐柔すべく送り込まれた信長軍の使者・官兵衛。竹中半兵衛亡き後、秀吉の参謀として頭角を現すことになる、稀代の軍略家である。しかし、そんな官兵衛は、交渉の余地すら与えられずたちまち捕獲され、その後約1年近くにわたって、有岡城の土牢に幽閉されてしまうのだ。
信長の包囲網によって、刻一刻と追い込まれていく有岡城。その城内では、次々と不可解な出来事が巻き起こる。何者かによって殺された人質、判別できない大将首、密書を懐に入れたまま絶命した僧侶。動揺する人々の心を落ち着かせるため、それらの事件を解き明かそうとする村重は、やがて土牢に繋がられた官兵衛のもとへと向かうのだった。そう、本作『黒牢城』は、有岡城を広大な「密室」に、土牢に繋がれた官兵衛を「安楽椅子探偵」に見立てた「本格ミステリ」の連作短編という見方も可能な一冊であり、そこが何よりも本作の画期的なところなのだ。
無論、敵同士であるがゆえ、官兵衛もそうやすやすと応じるわけではない。『羊たちの沈黙』のレクター博士とクラリスさながら、ときにそれぞれの「実存」を揺さぶるような鋭い問いを投げ合いつつ、その会話の果てに、村重は真相解明の糸口を見出していくのだ。しかし、ひとつひとつの事件の「謎」が解明されたとしても、有岡城をめぐる状況は、その城主たる村重の置かれた立場は、決して好転はしない。むしろ、籠城の期間が長くなればなるほど、城内の人々の不安や疑心暗鬼によって、その状況と立場は、ますます危ういものになっていくのだった。
かくして、その最後に、究極の「謎」が浮かび上がってくる。そもそも、なぜ村重は、天下統一を見据えた信長に、このタイミングで反旗を翻したのか。そして、なぜ官兵衛は、自らの命を賭してまで、単身有岡城に乗り込んできたのか。その「謎」が解明されたとき、彼らはどんな行動に打って出るのだろう。積み重ねられた細やかな「真実」が、やがて巨大な「謎」を解き明かすヒントとなっていく――巧みに構築されたそのプロットは、まさしくミステリ作家・米澤穂信の真骨頂とも言える、実に見事な仕上がりとなっている。