松井優征『逃げ上手の若君』はなぜ“北条時行”を主人公に? 時行の考える「逃げる」の本質
この4巻では、時行たち逃若党が、北信濃の国司・清原信濃守の圧政に抵抗する保科弥三郎が率いる諏訪神党を説得し「戦いを止めさせて逃がそう」と奮闘する姿が描かれた。時行は保科陣営のいる川中島へと向かう。しかし武士たちは殺気立っており「さあ死ぬぞ!!!」「華々しく討ち死じゃ!」と激しく連呼。時行の説得を聞こうとしない。
戦いの中で「死ぬこと」ばかり考えている武士たちに「貴方達は美しく死ぬ自分に酔ってるだけだ」と時行は怒りを露わにし、「私は何が何でも死にたくない」「自害する暇があったら死ぬほど生きたい!」と孤次郎に言う。時行に説得された保科たちは戦場から撤退。戦いの中で何かを掴んだ時行は「死にたがる武士を生きたがりにして仲間にするんだ!」と宣言し、全国の武士を味方にしようと考える。
このエピソードは、時行の考える「逃げる」の本質が示されている。戦の中で死のうと考える武士たちは「美学に殉じる」ことで思考放棄している。対して時行の「逃げる」は思考放棄とは真逆のものであり、川中島での撤退戦も犠牲を最小限にするための戦略的判断だ。
日本中世史研究者の鈴木由美によって書かれた『中先代の乱 北条時行、鎌倉幕府再興の夢』(中公新書)は、鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇の建武政権に対して幕府再興のために時行が起こした「中先代の乱」の詳細とその影響について検証した新書だ。
本書を読むと『逃げ上手』の歴史的背景がよくわかるのだが、読んでいて意外だったのは時行の“しつこさ”だ。「中先代の乱」以降も時行は何度も北条与党の反乱に参加しており、生涯をかけて足利尊氏に対する抵抗を貫いている。鎌倉幕府と北条家神輿の神輿として担がれていた側面も大きかっただろうが、見方によっては最後まで“逃げなかった”とも言える。
史実における時行の姿は『ネウロ』や『暗殺教室』で松井優征が描いてきた、圧倒的強者に対して頭脳を駆使して立ち向かう弱者たち姿のどこか重なる。
だからこそ松井は、時行を主人公に歴史漫画を描こうと思ったのだろう。