私たちが「何もしない」時間とともに失ったものは? 米 美術家が警鐘鳴らす「注意経済」の脅威
私たちの生活から「何もしない」時間がなくなってしばらく経つ。スマートフォンが普及する以前、日々の生活には、ただ寝転がって考えごとをするような空白の時間があった。これといって生産性のない、情報を取り入れたり発信したりするわけでもない、いっさい何も起こらない時間。いま、そのように「無為な時間」は存在しなくなった。
誰もが朝起きてすぐに、寝ぼけた頭でほとんど無意識のうちに携帯をつかみ、ニュースやソーシャルメディアをチェックし始める。いま、私たちはつねに何かをしている。電車の中でSNSを眺め、洗濯物を畳みながらポッドキャストを聞き、食事をしながら写真を撮ってシェアし、入浴中ですらYouTubeを見る。そうしないと損をしたような気持ちになってしまうのだ。こうして「何もしない」時間を失った私たちの生活は、過去と比較してどのように変化したのだろうか? どうせ元から何もしていなかったのだから、無為な時間がなくなったところで気にする必要はないという考え方もありそうだ。一方、絶えずスマートフォンをそばに置くことで注意力が散漫になった事実は否定できない。こうした生活スタイルの大幅な変化は、私たちの精神にどのような影響をもたらすのだろうか。
アメリカ在住の作家、美術家であるジェニー・オデルの著書『何もしない』(早川書房)は、私たちの生活から失われた「何もしない」時間をどう取り戻すかについて論じた本である。オバマ元大統領が毎年発表する「お気に入り本」リストに入ったことで注目され、日本でも翻訳が刊行された。同書に共感したオバマ氏もあるいは、SNSに投稿した自分の発言が何回リツイートされたか、通知欄を繰り返しタップした経験があるのかもしれない(あの虚しい確認作業!)。「何もしない」状態に耐えられなくなった私たちは、過去と比較して精神的な豊かさを得ているのだろうか。著者は「何もしない」ことは抵抗だと述べる。彼女は、ソーシャルメディアには「依存性が故意に組み込まれている」と懸念し、扇情的なニュースの見出しや、私たちの集中力を根こそぎ奪っていく通知欄によって成立するビジネスの仕組みを「注意経済」(アテンション・エコノミー)と呼んで警戒している。『何もしない』は、注意経済への抵抗について書かれた本だ。私たちの時間は限られているし、注意経済が貴重な時間を奪っていくことに抵抗すべきだと著者は述べる。彼女の目標は、注意経済の問題点を具体的に指摘し、いかに距離を取るかについて考えることだ。こうした著者の問題意識を他人事だと思える人は、ほとんどいないだろう。いまや「何もしない」人は、ただそれだけで特別な存在なのだ。
注意経済の何が私たちにとって脅威なのだろう。『何もしない』が考える注意経済の問題点のひとつに、偶然性の喪失がある。この指摘は鋭い。では、具体的に「偶然性」とはどういう意味だろうか。私たちはSNSを通じて、日々個人的な情報を送信し続けている。何についてどんな発言をするか。誰をフォローするか。どの意見を拡散し、誰に返信を送るか。どの投稿に「いいね」を押すか。こうした情報がシステム側へ蓄積されていくと、やがてアルゴリズムは「次に誰とつながればいいか」「私と気が合いそうなユーザーは誰か」を推薦してくるようになる。そして、こうした推薦は精度が高い。同じ趣味を持ち、考え方も近く、話も合う相手が選ばれるようになる。これは一見とても合理的に見えるが、つまりはAIが自分の交友範囲を絞り込み、誰と仲良くなるべきかを決める時代がすでに到達しているということでもある。機械が友だちを決める社会。こうした視点は、たとえば今年公開されたばかりの映画『ロン 僕のポンコツ・ボット』(2021)にも共通しているのだが(映画では、ロボットが友だちを探し、仲良くなるまでの過程を代理で進めてくれる未来が描かれる)、私たちはアルゴリズムが友人を決める社会で、本当に幸福になれるのだろうか。こうした疑問について、私は深く考えたことがなかった。著者はこのように述べている。
アルゴリズムが勧めてくる友達になれそうな人たちーー「私が興味を持っていることにかんする知識が豊富な人」、「キャリア構築を何らかの形で助けてくれる人」、さらには「私が欲しいと思っているものを持っている人」などの基準に従えば「正解」だとされる、印象に残る人たちーーだけを気にかけて人生を送ることにしたとしよう。さらに、そういう友達と、アートの展示会のオープニングに参加したり、アートについて語り合ったり、人脈づくりのような活動にいそしんだりと、「おすすめ」される方法で交流したとしよう。すると、私と私の交友の世界は、私が音楽を聴いているスポティファイ(Sporify)で自動的に提案される〈ディスカバー・ウィークリー〉プレイリストと同じようなものになるだろう。