ヘレン・ケラーと比べられるのはもううんざり! 盲目の著者が綴った“怒りと愛の手紙”とは?

ヘレン・ケラーの知られざる素顔

 誰かと比較され続ける人生とはどのようなものだろうか。想像しただけで苦しそうである。性格の明るい兄や、勉強のできる妹を引き合いに出され、「あの子と比べて、お前は……」と叱られることほど、子どもの自尊心を削るものはない。また、どこへ行っても親と比較される運命から逃れられない有名人の息子や娘は実にしんどそうで、何だか気の毒になる。ジュリアン・レノンや長嶋一茂が感じていたであろう、周囲からの視線や重圧の苦しさは、私には想像がつかないものだ。

 今年翻訳が刊行され、話題となった『目の見えない私がヘレン・ケラーにつづる怒りと愛を込めた一方的な手紙』(フィルムアート社)の著者ジョージナ・クリーグが、ヘレン・ケラーに対して怒りの手紙を書かなくてはならなかった理由も同様に、目の見えない彼女が、小さな頃からヘレン・ケラーと比較され続けためだったという。

 「なぜ、もっとちゃんとヘレン・ケラーのようにできないの?」と言われながら育ったジョージナ・クリーグにとって、ヘレン・ケラーは「私個人の悪霊」であり、その重苦しい呪縛をどうにかして取り払う必要があったのだ。すでに亡くなった歴史上の偉人へ向けて「アンタに言いたいことがある!」と挑発的な手紙を書く、その斬新なスタイルにまず惹かれた。「人と比べられること」はそれほどにストレスが大きいのだ。

 こうしたきっかけから著者は、ヘレン・ケラーに対する「怒りと愛を込めた一方的な手紙」を書いていくのだが、本書をしばらく読み進めて気づくのは、これが意外にも、手紙の形式を取ったヘレン・ケラーの評伝だということである。

 この本を手に取る前は、目の見えない著者の経験や考え方を綴ったエッセイのようなものであると思い込んでいた。著者の目的は、個人的な手紙という親密なスタイルを取りつつヘレン・ケラーの生涯をつぶさに観察し、世間に流通する「ヘレン・ケラー神話」とは違った、いきいきとした人間らしい姿を提示することだった。読み終える頃には、ヘレン・ケラーとはどんな人物だったのか、新鮮なイメージが立ち上がってくるはずだ。

 この本を通じて著者は、ヘレン・ケラーが実際にはどのような人物だったかを探っていく。彼女に関する記録や著書のすべてに目を通し、研究しつくした著者は「いつも静かで笑顔をたやさず、愛に満ちあふれ、感動を与える存在」という仮面の奥に、どのような内面が隠されていたのかを発見しようとした。

 実際のヘレン・ケラーは、自分の考えを臆せず主張する女性であった。しかし、工場労働者の労働環境に意見し、婦人参政権について論じ、社会主義に傾倒したヘレン・ケラーを、人びとはできるだけ見ないようにした。人びとが求めたのは、あくまで「苦難を克服した奇跡の人」であり、「どんな時にも慈母のようなおおらかさで周囲を包む神聖な女性」であった。一方「意見をする女性」は、世間から求められるイメージと違ったのである。そのようなヘレン・ケラーを、人びとはあまり見たがらなかった。

 たしかに、私たちがヘレン・ケラーについてまず連想するのは、何を差し置いても「ウォーター」である。いわば彼女は「ウォーターの人」だ。私たちはみな「ウォーター」のエピソードが大好きである。

 ポンプから出てくる水に手を触れた彼女の頭のなかで、単語とそれが指し示すモノとが完全に合致した瞬間。とはいえヘレン・ケラーもまた成長し、さまざまな経験を積んで変化しているにもかかわらず、人びとはあいかわらず「ウォーター」ばかりを欲しがり、その場面を何度も繰り返すことで神話化してしまった。「あなたの初期の人生の物語が、あなたにとっては真に需要のある唯一の財産だ」と著者は書く。著者がヘレン・ケラーと比べられたように、ヘレン・ケラー本人もまた、子ども時代の自分と比べられていたのである。いつまでも子ども時代について訊かれ続ける人生もまた、さぞや窮屈だっただろう。

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