烈海王は中国拳法のイメージを一新したーー『刃牙』シリーズで格闘技ファンに与えたインパクト
“魔拳”烈海王。『グラップラー刃牙』(秋田書店)シリーズ(以下、『刃牙』)に登場する中国拳法の達人であり、作中でも屈指の実力を誇る武道家であり、またその武道全般に対する造詣の深さから、解説者としての能力にも定評があった。
烈海王が見せた中国拳法の衝撃
※以下、ネタバレあり
最大トーナメント編で初登場。4000年の歴史を誇る中国武術の高度な技術を自身の並外れた肉体を持って駆使し、圧倒的な実力で勝ち上がる。準決勝で刃牙に破れはしたものの、中国拳法の圧倒的な歴史に裏打ちされた実力はその独特の口調とともに、読者に鮮烈なインパクトを残し、以後シリーズの主要メンバーとして活躍。数々の強敵との戦いの果てに、宮本武蔵のクローンに敗れ命を落とすが、今もなお読者に愛される人気キャラクターである。
そんな烈海王が『刃牙』シリーズに残した大きな功績の1つが、中国拳法の凄さを再認識させたことである。我々日本人にとっての中国武術、中国拳法(およびそのエッセンスを継承した武術)の最初の接点は、ブルース・リーの『燃えよドラゴン』であったり、ジェット・リーの『少林寺』、そしてジャッキー・チェンの一連の作品といった70〜80年代に流行った所謂「カンフー映画」であろう。もちろんブルース・リーとジェット・リー、ジャッキー・チェンらを一括に話す危険性は百も承知だが、おそらくここを一括に認識している人も多く、またそれこそが中国拳法への誤った認識を生んでいた一因でもあったと思える。
総合格闘家の矢地祐介が自身のYouTubeチャンネルで、ジークンドーの石井東吾先生に技術を披露&教えてもらう動画を公開し、バズったことが記憶に新しいが、その中で矢地が言及し、石井先生が同意していたのが「ジークンドーはブルース・リーの映画によって、良くも悪くもポップになってしまった」ということである。ブルース・リー自体はいまさら説明するまでもなく武道家としてもその能力は高く評価されており、中国拳法の詠春拳をベースに自身の格闘理論を組み合わせて作り上げたジークンドーは、まぎれもない武術である。しかし、映画としてのエンターテインメント性を意識した動きを取り入れた画作りは、それでも本物を思わせるのに十分すぎるスピードと殺気、技のキレ、そしてなによりブルース・リー自身の存在感、佇まいによって、映画を観た人にリアルなジークンドーそのものと錯覚させるのに十分すぎる説得力を持たせてしまった。
その後、ジャッキーのより映画に振った派手で時にコミカルで、スピーディーなエンターテインメント性に優れたカンフーアクションが続いたことによって、中国拳法=スピーディーな動きでアクションの大きい、かっこよくて見栄えはいいが、実戦的ではない武術という認識が日本人に、特にそこの直撃世代には広まっていった。
烈海王の登場は、そうやってブルース・リーやジャッキー・チェンの映画を観て育ってきた我々世代にとって、まさに頭をガツンと打たれたような衝撃をもって迎えられたのである。
最大トーナメント戦が始まったとき、中国拳法と合気道がベスト4に残ると予想した読者はほぼ皆無だったであろう(もちろんその2人はトーナメントから初登場のキャラだったので、どういうキャラクターかまったく未知で思い入れもなかったという一面もあったが)。
準々決勝では空手界の最終兵器、天才・愚地克己のマッハ突きを「中国拳法が2000年前に通過した場所」という言葉とともに一蹴した。それは『空手バカ一代』によって育まれた空手最強幻想、そして数多くの作品を世に出し70年代からの格闘漫画ブームを作った没後もなお、そのジャンルの「絶対王者」であった梶原一騎幻想を木っ端微塵に打ち砕いた。『刃牙』シリーズの歴史の中でもエポックメイキングな瞬間であり、格闘漫画の歴史の転換点の一つといえよう。
もっとも最大トーナメント編が始まった頃は、K-1やUFCも始まった、世界の格闘技界が大きな転換点を迎えていた”格闘パラダイムシフト”と言っても過言ではない時期と重なる。93年に開催された第1回のK-1では、出場8人中下馬評7、8番手の選手が決勝戦に進出し、戦いぶりも合間って、観客、視聴者のド肝を抜いた。奇しくも同年に開催された第1回UFCも当時、全くの無名選手で日本人からするとまったくのノーマークであったホイス・グレイシーが優勝。その後、UFCが総合格闘技というジャンルの発展とともに現在に至るまで、ジャンルを牽引する存在となった。我々にはまだ見ぬ、未知の格闘技や強い選手、達人がいるということを次から次に思い知らされることになったのだが、その流れの中に烈海王もまちがいなく存在していたのである。