浅田次郎が語る、物語作家としての主義 「天然の美しさを無視して小説は成立しない」

浅田次郎『流人道中記』インタビュー

 万延元年(1860年)、姦通の罪を犯したという旗本・青山玄蕃に対して、奉行所は青山家の所領安堵と引き替えに切腹を言い渡すが、玄蕃は「痛えからいやだ」とこれを拒否。蝦夷松前藩への流罪判決が下り、押送人に選ばれた十九歳の見習与力・石川乙次郎とともに、奥州街道を北へ北へと歩んでゆくーー。

 浅田次郎が読売新聞朝刊にて連載した時代小説『流人道中記』が、3月9日に書籍化された。口も態度も悪いろくでなしだが、時折、武士の鑑というべき所作を見せる玄蕃と、その所作に戸惑いながらも魅せられていく石川乙次郎の道中を描いた同作に、浅田次郎はどんな心情を込めたのか。作家として円熟の時を迎える浅田次郎に、少年時代の読書体験から自身の芸術論に到るまで、大いに語ってもらった。(編集部)【インタビュー最後にサイン入り書籍プレゼント企画あり】

天性の嘘つき少年でした(笑)

ーー子供のころから本がお好きだったのですか?

浅田:好きでしたね。まだテレビも何もない時代だったので、子供にとって本を読むというのは、最大の娯楽だったんです。いい時代でしたよ。

ーーお気に入りの作家なども、いたのでしょうか?

浅田:作家をはっきり意識し出したのは、中学に入ってからでした。日本では谷崎潤一郎さん、川端康成さん、三島由紀夫さんの豪華3本立てですね(笑)。同時に、僕らの時代は外国の作家も並行して読む習慣がありました。今は翻訳小説の刊行は少なくなりましたが、昔は近代文学の名作が、こぞって翻訳されていた。スタンダールもバルザックもトルストイも、日本の流行作家と同じように読んだんです。そういう意味では、とても幸せな読書体験のスタートでしたね。

ーーそういう読み方をしている人は、多かったのですか?

浅田:同じ読み方をしている読書少年は、たくさんいましたよ。考えてみたら、あまり「勉強しろ」って言われなかった。これは今の子たちとの違いかもしれない。塾に行っている子なんて、いなかった。むしろ塾に行くのは、学校の成績が悪い子でした。そうじゃない子が通ったのは、そろばんか書道の塾。あれは一種の日本的教養主義っていうのかな。日本人の教養として必須なものであるという、当時の親の考え方から通わせていたんだと思います。

ーー自分でも小説が書けるという自覚は、いつごろ芽生えたのですか?

浅田:これも中学の時です。でも作文は小学生の時から好きで、嘘話を作るのが好きだった。天性の嘘つき少年でした(笑)。

ーー自衛隊やアパレルなどの職を先に経験されたのは、小説はいつでも書ける自信があったから、その前に世の中を見ておこうということだったのでしょうか?

浅田:全くそんなことはありませんでした。食うや食わずで、汗水流して働いていました。昼に仕事をして、夜に読み書きっていう苦行僧のような……。僕は酒を一滴も飲めないのですが、実はそれが原因だと思っています。恥ずかしくて「体質に合わないもので」とか、「ちょっと酒の席で間違いを起こしまして」とか、ごまかしているけれど、この時の習慣が身についてしまっている。飲んでしまったら、読み書きができなくなります。皆さん気をつけてくださいね。酒っていうのは、飲んでいる時間が1時間か2時間でも、酔っている時間はもっとあるんです。その間、何もできない。飽食終日の時間なわけです。美味そうに飲んでいる人を見ると、うらやましいと思いますがね。

ーー最新刊『流人道中記』の青山玄蕃にしても石川乙次郎にしても、酔った人間の描写が非常にリアルでしたね。

浅田:それは、僕が酔っ払いウォッチャーだからです(笑)。若い時分から、酔っ払いを数限りなく見てきました。中でも最大の酔っぱらいは、親父とお袋でした。もう、どうしようもなかったです。昨日も娘夫婦が来て酒を飲んでいたので、じっくりウォッチしてやりました。酒を飲むシーンを描くことは多いですね。自分が飲めないから、悔しくて書いているのかもしれないけど。

ーー苦行僧のような生活を送っていたとのことですが、浅田先生にいわゆる鳴かず飛ばずの時代があったというのは、我々にはちょっと信じられません。

浅田:小説家としては39歳、40歳になっても泣かず飛ばずでした。新人賞にいくつ応募したって、箸にも棒にもかからない。どこかに原稿を持ち込めば、「自費出版ならこれだけよこせ」と言われる。だから出版社には恨みつらみがありました。負けず嫌いだから「いつか全部の版元から本を出してやるぞ」と思ってましたが。

ーーデビュー前に、かなりの苦労時代があったのですね。

浅田:それにはひとつの理由があります。今の人は、みなさん執筆はパソコンでしょう。僕らが20代、30代のころは全員、手書きなんです。その大きな違いは、実は字を書くことの適性、というものがあるんです。つまり字をたくさん書くことのできる人間と、できない人間、という本質的な問題がある。そこをクリアできる人間でなければ、小説家になる資格がなかった。これは相当な重労働ですから。ところが、ワープロになった時に小説家志望者がたくさん増えて、パソコンになると、さらにたくさん増えました。僕は若い作家にいまだに言いますよ。手で書いてみろ、って。全然文章が違いますから。もしこの『流人道中記』をパソコンで書いたら、倍の長さにはなってしまうはずです。ワープロやパソコンでの作業は積み上げていく作業ですが、手書きの執筆は削っていく作業です。頭の中で選別して削っていかなければ、体が持たない。そうやって20代、30代に下積みをして40代でデビューできれば上出来でしょう。

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