古井由吉は日本文学に何を遺したのか 82年の生涯を新鋭日本現代文学研究者が説く

古井由吉は日本文学に何を遺したのか 82年の生涯を新鋭日本現代文学研究者が説く

 2月18日、「内向の世代」の小説家・古井由吉が逝去した。享年82歳。

杳子は深い谷底に一人で座っていた。/十月もなかば近く、峰には明日にでも雪の来ようという時期だった。(「杳子」71年)

 およそ50年前、古井が第64回芥川賞を受けた代表作「杳子」の冒頭。最小限の描写のなかに作品全体をおおう不穏なムードが圧縮された印象的な書き出しである。タイトルにある「杳」という語は〈ヨウ〉と読んで、〈くらい、ぼやけた、さびしい〉といった意味をあらわすという。主人公は「彼」と呼ばれる男性である。精神を病んでいるらしい杳子と山中で出会い、次第に「恋愛小説」的な関係がむすばれていく。杳子の病いをつぶさに観察する「彼」のまなざしはときに暴力的である。だが、その「彼」が杳子に見つめ返されるとき、物語はひとつのピークを迎える。

 比較的入手しやすい(たとえば、新潮文庫やKindleで読める)中編なので、古井作品を未読のかたには『杳子・妻隠』からの入門をおすすめしたい。

 そもそも古井はどのような作家だったか。「内向」をキーワードに振り返ってみよう。1971年、彼は「内向の世代」というレッテルを貼られた。先回りして言うなら、それは文字面から予想されるような「内気で、どこか暗くてじめじめした小説を書くひとたち」という意味ではない。

 では、どのような由来か。命名者である文芸評論家の小田切秀雄は「自我と個人的な状況のなかにだけ自己の作品の真実の手ごたえを求めようとしており、脱イデオロギーの内向的な文学世代」として、70年前後に文壇に現れた新人たちがアクチュアリティを欠く傾向にあると批判した。名前があがったのは、小説家では古井のほかに後藤明生、黒井千次、阿部昭、柏原兵三、小川国夫など、批評家では川村二郎、秋山駿、入江隆則、饗庭孝男、森川達也、柄谷行人など。ここで言われていることは(とくに古井の場合は)おそらく正しい。すれ違っているのはその傾向を肯定するか、否定するかという評価軸=イデオロギーだろう。

 古井をはじめとする新鋭作家たちは「内向」を肯定し、すすんで「文学」と「政治(社会)」を切断する。「文学」自立の宣言である。しかし、その身振りを単純に呪縛からの解放として祝福するのは、やや楽観的だろう。というのも「社会」や「政治」を語るツールとしての「文学」という役割を拒絶することにより、彼らは「小説」というものの無根拠性を突きつけられてしまうからだ。ゆえに彼らはたえず「ならば、小説とはなんのためにあるのか?」という「文学」の存在論について、作品をつうじ(直接的ではないにせよ)自己言及的に考え続けるのである。古井も例外ではない。

 ここに近代文学の終り、そして現代文学のはじまりを重ねることもできるだろう。が、さきに待つのは困難な道である。古井は試行錯誤する。

 50年に渡る古井由吉の営みを網羅的に説明することはむずかしい。ここでは作風の面から私流に4つに区分して、説明を試みようと思う。

①初期(1968年~1971年、代表作『円陣を組む女たち』『男たちの円居』)。

 デビュー作は、登山中の記憶喪失をめぐる短編「木曜日に」。小説家になる以前、古井はドイツ文学研究者としてロベルト・ムージルやヘルマン・ブロッホ、ニーチェなどの翻訳をおこなっており、その影響が濃いとされる一時期。「群衆の熱狂」や「共同体と個人」といったテーマを抽象的な物語内容と濃密な描写で追求する作品が多い。

②前期(1971~1980年、代表作『杳子・妻隠』『水』『櫛の火』『聖』3部作など)

 一定の物語性をもった作品が多く、入門するのにうってつけの時期だと思う(わたし自身がそうだった)。作家史的には、連作短編『水』や長編『櫛の火』のように古典的な物語風土に題材を借りた作品が多く、ドイツ文学由来の作風から抜け出そうという意思が見てとれる。連作や長編など、形式面の実験を積極的におこなった時期でもある。が、順風満帆であったわけではなく、のちのインタビューでは、この頃に「フィクションということに行き詰まった」と漏らしている。

③中期(1980年~1989年、代表作『山躁賦』『槿』『仮往生伝試文』など)

 そこで古井は自らの原点に立ち返り、ムージル的な「エッセイズム」の探求を開始する。このジャンル解体的な、かつ現在進行形の散文を古井は「試文」と呼んで概念化した。その結晶が連歌や説話、日記などを縦横無尽に引用しながら言葉がつむがれていく『山躁賦』と『仮往生伝試文』という記念碑的傑作である。変わりゆく文学状況のなかで、もっとも試行=実験を激化させた一時期だと言える。一方で「小説らしい小説」への「最後のご奉公」として書いたという『槿』も初期から続く「恋愛小説」の系譜の到達点として見逃せない。

④後期(1989年~2020年、代表作『楽天記』『白髪の唄』『野川』『辻』など)

 古井自身と重なる「私」が、老いや災害、記憶などについて思弁をめぐらす連作群。それぞれがすぐれた短編として成立していると同時に、たとえば単行本といった単位が消滅し、古井が書くすべてのものがひとつながりであるような境地に至っている。その中心にいるのは体を病み、老いた「私」。同じことを何度も繰り返し、執拗に書き続ける「私」の筆致は「私小説」というジャンルを抱えた日本文学全体の宿痾を明るみにしようとしている。

 以上、古井の試行錯誤のおおまかな見取り図である。「文学」の存立基盤をたえず問い直す、自壊さながらの実験の連続により「内向」という態度を貫いた小説家による作品の数々にふれるとき、わたしたちもまた「小説とはなにか?」を考えずにはいられない。自身の文学観をゆさぶってみたいと思うひとは、ぜひ手にとってみてほしい。

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