『映画秘宝』休刊に寄せて 旧作も傑作も駄作も分け隔てなく、楽しそうに記事にする雑誌だった
ど田舎に住んでいた小学生のころ、ジャッキー・チェンに夢中だった僕は彼の映画が公開されると、隣町にあった映画館に行っては朝から晩まで劇場に居座り続け、ジャッキーの映画を繰り返し見ていた(当時の映画館は入替え制ではなかった)。
ある日テレビで放映された『スネーキーモンキー蛇拳』を僕はかじりつくようにして目に焼き付けていた。ジャッキーよりも敵であるウォン・チェンリーの足技の美しさに惚れ惚れしながら。そんな時、父が僕の背後からこう言った。
「ブルース・リーには及ばないな……」
それまで『8時だョ!全員集合!』を見ていると「クレージーキャッツのほうが笑いに知性がある」などと、昔の番組を持ち出しては今でいうマウントを息子にとってきた父は、映画についても同じだった。
ビデオレンタルがいたるところに乱立した80年代後半のある日、『ヤングガン』のビデオを借りてきてリビングで見ていた僕の背後からまた父が言った。「『荒野の用心棒』はもっと面白いぞ」と。『プラトーン』を見ていると「『地獄の黙示録』っていうのがあってな……」。『処刑ライダー』をみていると「そんなの見てないで『イージー・ライダー』を見ろ」。
ウザい! 圧倒的にウザすぎる、アメリカンニューシネマ世代であるオヤジのマウンティング。事あるごとに自分の息子の嗜みにマウントをとる父親に嫌気がさした僕はすくすくと映画ルサンチマンとして成長していった。そして、僕は父の好きな映画を意図的に避けるようになっていった。
そんな子供時代であった80年代の映画はSFとアクションとホラーの幕開けだった。当時10歳であった僕はまともにその洗礼を浴びた。1984年には『ターミネーター』『ゴーストバスターズ』『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』『ビバリーヒルズ・コップ』『グレムリン』『スパルタンX』『デューン/砂の惑星』『エルム街の悪夢』『ネバーエンディング・ストーリー』『ベスト・キッド』と現在も語り継がれる作品が公開された。またレンタルビデオブームであったためビデオでは『ブレードランナー』や『遊星からの物体X』に出会い、テレビ放送では『エイリアン』が夜の9時から放映していて、コタツの中に体を隠し14インチの小さなテレビ画面を恐怖に震えながら観ていた。
この時期、次から次へと公開される映画は純粋に自分をスクリーンの中へと導いてくれた。『ターミネーター』で終末の未来に慄き、『ゴーストバスターズ』のプロトンパックをいつか作ろうと誓い、『ネバーエンディング・ストーリー』では本は異世界の入口だと本気で信じた。僕にとってこの時代の映画は宝箱だった。
しかし20代になると若者は、何者でもない自分に焦るものである。ふわっふわのアイデンティティに悩み、泣き叫び、怒り、吠える。そして僕は何者かになりたくて映画にすがるようになっていった。
不幸にもそこに登場したのがインターネットだった。いまの僕なら全力で止めたであろう、映画感想のホームページを20代の僕は立ち上げてしまったのだ。果たして見ず知らずの映画ファンたちが可視化され、嫌が応にも自分との比較地獄が始まる。ネットの登場によって僕のふわっふわのアイデンティティはとろっとろに溶けてしまった。
不幸は重なるもので、90年代ともなるとミニシアター全盛である。映画ファンとしてのアイデンティティが変な場所から漏れ出てしまった僕は、もはやSF映画やホラーから距離を置き「ギャロは天才だな」(『バッファロー’66』)、「いやいやクリストファー・ドイルあってのウォン・カーウァイだろ」(『恋する惑星』『天使の涙』)、「ソフィア・コッポラは『ロスト・イン・トランスレーション』のほうが好きだ」(『ヴァージン・スーサイズ』)などとBBS(ホームページに設置した掲示板)でのたまい、他の映画ファンよりも多くの映画を見なければならない、そして見終わったらその感想を書かなければならないと何かに追われるように映画を見続けていた。宝箱だった映画が、いつしか自分を大きく見せるためのただの踏み台に成り下がってしまっていた。
映画をまるで作業のように“消化”していた時期に、職場である書店で『ブレードランナー』が表紙になった雑誌が目に止まった。それが雑誌『映画秘宝』だった。
スティーブン・スピルバーグのSF映画『マイノリティ・リポート』の公開に合わせた特集だったが、10代に大好きだった『ブレードランナー』がこの『映画秘宝』を見るまで頭の片隅にも残っていなかったことに、心のそこから焦りのようなものがこみ上げてきた。過去の映画を何一つ自分の心に残してこなかった、という焦りだった。『映画秘宝』を開くとそこに紹介されている映画は知らないものばかりだった。それまで『ロードショー』や『PREMIRE』といった雑誌で新作映画の情報を収集してきた僕は、『映画秘宝』で大特集を組んでいる映画たちがこれから公開予定の映画ではなく、すでに公開された過去の映画だったことにまた驚いた。ページをめくるたびに映画がまた好きになっていった。そして映画を宝箱と思っていたあの頃がまた僕の心に甦ってきた。多くのライターたちの記事が集まった紙面は口語体と文語体が入り乱れ、独特のカオスを生み出していた。そこには愛と憎悪とバイオレンスが渦巻き、行き過ぎともいえる攻撃的な感想や物言いに眉をしかめることもあった。それでも子供の溜まり場のような居心地の良さが『映画秘宝』にはあった。新しい映画が公開されれば「あいつなんて言ってるかな」と映画友達を気にするような雑誌だった。
『映画秘宝』は新作も旧作も傑作も駄作も分け隔てなく、21世紀でもブルース・リーや『荒野の用心棒』を大切なおもちゃのように楽しそうに記事にしていた。
おもちゃがたくさん入った宝箱。それが『映画秘宝』だったーー。頑なに避けていた、父が好きだった映画を僕はこの時に初めて観た。最高だった。
ブルースリーの『燃えよドラゴン』の冒頭での総合格闘技を予見したオープンフィンガーグローブに驚き、お辞儀しても相手から目を逸らさぬように説くブルース・リーはアクションスターではなく格闘家だった。『荒野の用心棒』では口の中で砂がザラつくようなルック、勇ましさと狂おしさが同居するエンニオ・モリコーネの音楽に高揚しクリント・イーストウッドの格好良さに虜になった。いままで観ていなかったことを後悔した。『地獄の黙示録』、『ディア・ハンター』、『イージー・ライダー』……父が褒めていた映画は『映画秘宝』も褒めていた。
今は亡き父に一言伝える事ができればこう言ってやりたい。「父さんが思ってるほどクレイジーキャッツの笑いにも知性はないよ」と。
そんな『映画秘宝』は2020年1月21日発売の3月号をもって休刊となる。廃刊ではなくお休みの“休刊”なのだ。いつかまたどこかで復活するだろう。そのときは「映画秘宝、今月はけっこうがんばってるよ」と友達のように言ってやろうと思う。
■すずきたけし
書店員。『映画秘宝』歴17年。たまにライターとイラストレーター。ウェブマガジン『あさひてらす』で小説《16の書店主たちのはなし》連載中。『偉人たちの温泉通信簿』挿画、『旅する本の雑誌』(本の雑誌社)『夢の本屋ガイド』(朝日出版)に寄稿。