芥川賞受賞作『むらさきのスカートの女』が問いかけるもの 倉本さおり×矢野利裕 対談【前編】 

倉本さおり×矢野利裕、今村夏子を語る

 書評家の倉本さおり氏と批評家の矢野利裕氏による文芸対談。前編は、第161回芥川賞を受賞した今村夏子『むらさきのスカートの女』について。同作の解釈から評価のポイント、『こちらあみ子』を含めた今村夏子の作家性についてまで語り合った。(編集部)

矢野「純文学的な手法はストーカー的」

矢野:『むらさきのスカートの女』はすごく面白かったです。今村夏子さんの他の作品で言うと『こちらあみ子』も大好きな小説だけれど、個人的には『むらさきのスカートの女』も引けを取らないくらい良かった。この作品で第161回芥川賞を受賞して良かったです。でも、ちょっと変わった作品というか、どう解釈して読めば良いのかがわかりにくい作品でもありますね。

倉本:選評を読んでも、読みは錯綜してるなと思いました。

矢野:斎藤美奈子さんが『AERA dot.』の書評で「ホラーか、はたまた恋愛小説か」と書いていました。読みの方向が多方向に開かれていて、すごく怖いという声がある一方でゲラゲラ笑いながら読んだという人もいる。面白さと不穏さが同居した作品で、その意味では村田沙耶香さんの『コンビニ人間』(2016年)に近い手触りを感じました。

倉本:そう、『コンビニ人間』のような手触りがあるからこそ、私は芥川賞の本命だと思ったんですよね。近年の芥川賞には、どんなタイプの評者が読んでもそれぞれの解釈を語ることのできる幅がある作品、言い換えると複数の読みが可能な作品が受賞しやすい傾向があるんです。『コンビニ人間』もそうだし、本谷有希子さんの『異類婚姻譚』(2016年)なんかもそうですよね。女性作家がスパッと受賞するときはそのパターンが多い。『むらさきのスカートの女』も「本当は実在しない女の話なんじゃないか」なんていう読みをする人もいますし。

矢野:謎な部分を残す作品ではありますよね。一方で、「語り手の〈私〉は誰なんだ?」という謎解きの話として読み進めると、ラストではちゃんと判明するので、ある意味ではカタルシスもある。推理小説的な構造があり、そこがキャッチーで良いと思ったんですよ。解釈の余地はたくさんあるけれど、シンプルな外枠があるから、これまでの作品よりスッと入ってきた。

倉本:「この〈私〉はどこの誰なんだ?」と思いながら読み進めると、ちゃんと答えがある。でも、そのうえで読みが複層化するところが面白いんですよね。どこの誰かはわかったけれど、どういう存在なんだろう?と考えると、様々な解釈が出てくる。結局、〈私〉は何が目的だったのか、何を考えているのかというところが理解し難くて、読者の語りたい欲求を刺激するから、建設的な議論にもなります。怖いと感じた人は何が怖かったのか、逆に笑った人は何がおかしかったのかを考えていくと、それぞれに深い話がいくらでも出てくる。

矢野:〈私〉はこの人だったんだって判明してから、いっそう不穏に感じるところはありますね。今村さんの他の作品でいうと『こちらあみ子』に収録された短編「チズさん」の語り手にも似ていて、最後の最後までずっと不穏な感じが続いている。こうした語り口は、今村さんの作家性だと思います。

倉本:ミステリ小説でいうところの、いわゆる“信頼できない語り手”ですよね。語り手が信頼できる情報を提示しているとは限らないので、そこからミステリやサスペンスの要素が生まれる。この小説の語り手も、ストーキングしている相手を“むらさきのスカートの女”と命名して、街の怪しい名物女のように見立てているけれど、物語が進行するにつれてだんだん彼女があらゆる意味で「普通」の女性であることがわかってきたりして。むしろ語り手の〈私〉が勝手なレッテルを貼っていたことが浮き彫りになってくる。たとえば、むらさきのスカートの女が就職したあと、公園で子どもたちと遊んで、リンゴを回し食べするシーンがあるじゃないですか? リンゴにみんなでかぶりつくって、かなり親密な関係じゃないとできないはずで、それを正直な子どもたちとできるということは、むらさきのスカートの女はその瞬間、完全にコミュニティの中に受け入れられているわけです。一方で、〈私〉はその輪の中に入れずに外から見ているしかない。だからこそ、むらさきのスカートの女に執着していて。

矢野:倉本さんの『むらさきのスカートの女』論によると、〈私〉はむらさきのスカートの女のことを、不気味で変な女だという風に見ているけれど、それは自分のある側面や欲望などを投影しているんですよね。そして、結局、最後には自分が想像していた彼女のポジションに収まるわけで、円環構造の物語にもなっている。よく読むと、最初の方からむらさきのスカートの女の描写は〈私〉の偏見に満ちているわけで、実はおかしな行動は取っていない。読者は途中で〈私〉の方がよほど変な人物だってことがわかるわけですが、その反転がすごく面白かったです。

倉本:ある種のジャンル小説ではなく、純文学と呼ばれるフィールドで、そういった認識の反転を戯画的に用いて物語に奇妙なうねりを出していく。しかもメタ的になりすぎずにここまで広く面白く読ませる書き手は珍しいですよね。「よく考えてみたら最初からこの語り手はおかしかったぞ?」と読者に気づかせていく感じ。「むらさきのスカートの女は姉に似ている、いやそんなわけはない」とか、ちょっと変てこな語り口で。

矢野:あの語り口には、文学的な意味での面白みも感じました。物事の細部までを描写していって主人公の心情などを浮かび上がらせるのは、基本的には文学的な手法だと思うのですが、それって実は、すごくストーカー的でもありますよね。斎藤美奈子さんは「ストーカーの視点で描かれた一人称小説」とも称していますが、人物描写にこだわる小説の在り方そのものがストーカー的なものでもあるなと感じました。

倉本:小説では当たり前のように〈私〉から見た世界の描写があるけれど、〈私〉は常に窃視してるわけだもんね。それって現実ではかなりヤバい奴だぞっていうことが、この小説を読むとよくわかる(笑)。

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