Lucky Kilimanjaro 熊木幸丸、“生きる=大変”な時代に音楽ができること 「安心できる心の置き場になってほしい」
フランク・オーシャンと共鳴した“人間の複雑性”の描き方
ーー先ほどおっしゃっていた作品の根幹的なテーマの中で「相互承認」という言葉が出ましたが、パーソナルスペースを描くとしても、例えば、かつての「HOUSE」という曲ではあくまでも「ひとりの空間」として、それは描かれていたと思うんです。でも、今作では、そこに「人と人」という関係性があることを強く感じます。
熊木:そこは自分でも感じている変化で。メジャーデビューした頃と今を比べてみたときの自分の大きな変化として、人の捉え方が「個」から「連携」になっているんですよね。元々は「個人をどうするか?」という発想で物事を考えていたのが、今は「つながり」をどう描いていくか? ということを考えるようになっている。今の自分が「みんなが幸せに生きるには?」ということを考えると、そこにヒントがあるような気がするんです。なので、おっしゃるように「HOUSE」や「ひとりの夜を抜け」の「個」を求める感覚からは変わったと思います。
もちろん「個」を描くことは今でも必要だと思うんですけどね。でも、それだけをずっと強くし続けていても、きっとどこかでほころびが出てしまうんだろうなと思う。個人主義、能力主義はすべてを解決する手段ではないので。むしろそれによって弊害が生まれるケースもいっぱいあると思う。「それとは違う幸せの追求ってきっとあるよね?」というのが、『Kimochy Season』を作っているあたりからの自分の考え方の軸になっていますし、どんどんその深みに入っている気はしますね。「つながり」について歌いたいという気持ちは、『後光』、『無限さ』、そして今回の2枚のミニアルバムにかけてどんどん出てきている部分だと思います。
ーー具体的な曲のイメージについて伺っていきたいのですが、まず1曲目「LIGHTHOUSE」。「灯台」という意味のタイトルですが、抽象的に、でもすごく美しく幸福な景色が描かれた曲のように感じます。この曲はどのような情景を描きたいと思っていましたか?
熊木:ライブを観に行ったり、クラブに行ったときに、空間のひとつとして自分が存在できていることの喜びを感じる瞬間があって。自分が音楽をやっているときも、そういうふうにみんなが感じてくれていたらいいなと常に思うんです。ライブハウスのライトやミラーボールの輝きが、みんなにとっての居場所になったり、生き続けられる場所としてあれればいいなと。そう思ってこの曲を書きました。その光のなかに愛がある……そんな空間を描きたかったんです。
ーー個人的に、〈過ぎてから分かることばかりさ〉という歌詞に「今は分からないことがあってもいいんだ」というニュアンスを感じて、ささやかな勇気が出てくるような歌詞だなと感じました。
熊木:なるほど。でも僕もそうですけど、後悔したくないから変にキャラを固定したり、自分の考え方を変えることを怖がってしまうこともありますよね。『Kimochy Season』から歌っていることですけど、自分にとっての新しい景色とか、自分が誰かに与えたい景色を見ようとしたときに、その過程で絶対に後悔は生じると思うので。たしかに、そういう気持ちも表れている部分かもしれないです。
ーー「フロリアス」は、まさに「風呂」をモチーフにした曲ですけど、なぜ「フロリアス」なんですか?
熊木:僕がよくBUMP OF CHICKENの「グロリアスレボリューション」をもじって、「フロリアスレボリューション」と言うんです。そこから来てます(笑)。
ーー(笑)。
熊木:昔のチャット文化で、風呂に入ることを「風呂ります」とか言ったりしたんですけど、そのノリから今でもmaotakiさんに言ってしまうんですよね。これ以外のタイトルは考えられなかったです(笑)。
ーーそういう日常的なノリからタイトルや曲のテーマが生まれているのが、いいですね。
熊木:最近は物事を決めたり、言葉を決めるときにはこういう精神でいますね。よくも悪くも軽率な状態になっていると思います。でも、そこに本質的な面白さや、伝わる何かがある気がするんですよね。この曲にかっこいいタイトルを付けてしまうことで得られるパッケージ感、客観性が、逆につまらないかなと思って。
ーー中盤に収録された「恋あおあおと」と「いつもの魔法」の2曲には、静かに燃え上がるような生命力を感じます。「恋あおあおと」で歌われる「恋」という言葉には、熊木さんはどんなものを託していますか?
熊木:僕は「恋」と「愛」は明確に違うものとして扱っていて。恋は、何かを得ようと求め続ける行為なんですよね。僕の中では、好きな人を追い求め続ける行為も恋だけど、新しい曲を書いて何かを作ろうとしている作業もある種「恋」のようなものですし、新しい音楽にハマる瞬間も「恋」に近い。何かに惹かれ、そこに突き動かされることを僕は「恋」と呼んでいると思います。言わば、能動性というか。その突き動かされる瞬間の不安定さも含めて、美しいものだと思うんです。そういうことを歌っているのが「恋あおあおと」ですね。この6曲の中では、表現していることがかなり『Dancers Friendly』寄りの曲でもあると思います。
ーー恋が燃え上がる状態を「あおあお」と表現されるのも美しいですよね。
熊木:タイトル、悩みましたけどね。でも「あおあおと」っていう、この文字の不安定感も含めていいなと思って。心もとない感じ、ここにいたくない感じというか(笑)。
ーー「いつもの魔法」はアコースティックな質感が映えたサウンドも新鮮ですが、音楽的にはどのようなイメージがありましたか?
熊木:フランク・オーシャンをとても聴いていて。フランク・オーシャンが作り出すアコースティックな質感がすごく好きなんです。フランク・オーシャンと、あとビリー・アイリッシュもそうですね。あの人たちのサウンドが持つ、うっすらと、ずっと影がある感じ。そのうえで愛を歌っているところに魅力を感じて、僕もそういう曲を作ろうと思って。アコースティックなサウンドだからといって、すべてがクリアになっていくようなカタルシスより、うっすらと闇の中で愛を育んでいるような時間をイメージして作ったのが「いつもの魔法」です。
ーーフランク・オーシャンは、もうしばらく作品は出していないですけど、ずっと神秘的な、謎をはらんだ存在としてあり続けている感じがありますよね。
熊木:そうなんですよね、フランク・オーシャンはいつ聴いてもすごくて。僕は『Blonde』がいちばん好きなんですけど、聴く度に「誰もやらないことをやっているな」と思います。他の人がやろうとしても、違うものになっちゃうんですよね。
ーー『Blonde』はサウンドの新しさはもちろん、「人間を描く」という点においても大きなものを残した作品ですよね。だからこそ、熊木さんが意識されているということにものすごく頷けるなと思います。
熊木:フランク・オーシャンは、人間の複雑性をしっかりと書いていた気がします。もちろん、ジェンダーや社会の前提などは僕と違う部分はあるんだけど、その複雑さをちゃんと作品の中に「入れてある」という感じが伝わってくる。いいアーティストは、その複雑さを変に解決させずに混ぜ合わせることができる人だと思うんですけど、僕もどれだけできるかわからないですけど、そういうことはやっていきたいなと思います。シンプルな解決やシンプルなメッセージに落とし込みすぎずに、あえて宙ぶらりんにしていくこともときに必要なんですよね。
ーー「いつもの魔法」の歌詞には猫が登場しますが、これもどこかBUMP OF CHICKENっぽいというか。
熊木:「ガラスのブルース」ですね、たしかに。「いつもの魔法」の猫は、うちで飼っている猫がイメージとしてあるんです。
ーーでは、この曲もかなり身近な景色がモチーフになっているということですね。すごく美しい日本語詞で綴られていますよね。
熊木:この曲は〈生き延びる〉とか〈永久機関〉、〈希望も失望も〉という言葉を書いているんですけど、人間の「死」や「滅びる」ということをベースに置いたうえで、どういう温かみを言葉で作っていけるか? ということを考えていました。「滅ぶ」というベースの上に、どう笑顔を添えることができるのか? どうしたら温かい家を建てることができるのか? という言葉の選び方を大事にした気がします。
ーー「死」や「滅ぶ」ということを、ご自身の表現に入れたかった?
熊木:まだ自分の中ではそこまで向き合い切れていないテーマなんですけど、自分の心の斜陽というか、自分という何かが薄れていったり、消える、失う、手放す……そういう感覚は、今後自分の中でどんどん増えていくんだろうなという予感はあって。もちろん、どんどん楽しいことはしたいし、面白いことはしたいし、その予感に抗っていきたいんですけど、抗おうとしているということは、感じているものがあるんだろうと思って。ミュージシャンとしてどうこうというより、自分という人間の人生が、そういう方向に転びうるということを感じるんです。「いつ自分が暗い感情で覆い尽くされてもおかしくない」という前提で生きている感じがしていて、それがこの曲の歌詞の価値観につながっている気がします。