小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード8 富士子とゲルダ 1936-1937 村井邦彦・吉田俊宏 作
村井邦彦と吉田俊宏による小説『モンパルナス1934〜キャンティ前史〜』エピソード8では、川添紫郎(浩史)がレピュブリック広場にて、とうとう富士子と再会を果たす。一方、国際情勢はますます緊迫し、彼らもまた歴史の流れに翻弄されていく。(編集部)
※メイン写真:BLM(ブラック・ライブズ・マター、人種差別抗議運動)のデモが開かれたパリのレピュブリック広場(2020年)。後方には、紫郎や富士子たちの時代と変わらぬマリアンヌ(自由の女神)像の後ろ姿が見える
【エピソード7までのあらすじ】
1934年夏、川添紫郎はフランスに旅立った。長い船旅の間に富士子という同世代の女性と知り合い、次第に惹かれていく。しかし、南仏マルセイユ港に着いたところで別れ別れになってしまった。紫郎は34年秋からパリで生活を始める。井上清一、丸山熊雄、坂倉準三、岡本太郎、城戸又一といった日本人と知り合い、モンパルナスのカフェを拠点に親交を深めていった。彼の交遊関係は写真家のロバート・キャパ、ゲルダ・タローといった外国人にまで広がっていくが、富士子の消息はつかめなかった。
折しも隣国ドイツではヒトラーが政権を握り、日本は国際連盟を脱退するなど、歴史が大きく動きだしていた。時代の荒波はパリの留学生の生活にも影を落とし始める。ある日、紫郎はモンパルナスの街にたむろするファシストの荒くれたちに襲撃され、陰で彼を警護してきた鮫島一郎に窮地を救われる。ところが、今度はその鮫島が何者かに銃撃された。
1936年5月3日午後1時
「おとといのメーデーもすごかったけど、今日のデモはお祭り騒ぎになりそうだな。この選挙で人民戦線が大勝ちするのは間違いないし、フランス人が浮かれたくなる気持ちも分かるよ」
チャーハンをほおばりながら川添紫郎が言った。1フランで満腹になれると評判の中国料理店に仲間たちが勢ぞろいしていた。カルチェラタンのサンジャック通りにある上海楼だ。店内はフランスの学生はもちろん、中国やベトナムなどからの留学生でぎっしり満員になっている。
「そういえば、アンドレはメーデーのデモを撮りにいって、毎日新聞から借りたライカを壊しちゃったんだって? 売り出し中の名カメラマン、ロバート・キャパ様にしては大失態だな」
岡本太郎がビールをチビチビと舐めるように飲んでいるロバート・キャパこと、アンドレ・フリードマンの肩を小突くと、アンドレは人差し指を口に当てて「シーッ! ノン、ノン」と大げさに首を振った。
「なんだよ、もうみんな知っている話だろう?」
アンドレの手からグラスを奪って、太郎が口をとがらせた。
「タロー、ライカの件は城戸が何とか後始末をしてくれたから大丈夫さ。それより公衆の面前でこいつの正体を明かすのは一応タブーなんだよ。キャの字は禁句だ。まあ、そのうちバレるとは思うんだけどさ」
紫郎が太郎のグラスにビールを注ぎながら言った。
「ああ、そうだった。しかし、アメリカ人のロバートのキャの字と名乗っただけで仕事が増えるなんてことがあるのかね」
彼なりに声を潜めて言ったつもりのようだが、太郎の声はこのテーブルの誰よりも大きかった。しかし、上海楼名物の大盛りチャーハンと格安のビールで浮かれ騒ぐ学生たちの熱気にかき消され、聞き耳を立てる客など1人もいなかった。井上清一と城戸又一、丸山熊雄は、隣の広いテーブルに陣どった白人学生の集団と仲良くなって、一緒に「インターナショナル」を歌い始めた。
「依頼はドッと増えたわよ。笑っちゃうぐらいにね。無名のユダヤ人ではなく、気鋭のアメリカ人カメラマンとして売り出せば効果はあるだろうとは思っていたんだけど、効果がありすぎて驚いちゃったわ。それからご存じだと思うけど、私もゲルダ・タローになったのよ。どうぞ、よろしくね」
相変わらず少年のように見える短髪のゲルダが笑いながら言った。
「タローってさ、僕の名前を取ってくれたのかい? まさかカンヌの犬じゃないだろうね?」
太郎がギョロ目を見開いてゲルダに訊いた。
「さあ、どうかしら。種明かしはしないことにしているの。ねえ、ゲルダ・タローって、語呂がいいでしょ?」
「うん、いい響きだ。グレタ・ガルボを連想させる」
映画に入れ込んでいる紫郎がハリウッドの人気女優の名を挙げると、ゲルダは「そうでしょ」と、まんざらでもなさそうな顔をした。
「いよー、皆さん、おそろいで。なんだ、あんな歌を大声で歌って。イノ、キド、それに丸ちゃんまで、あいつらみんな共産党に入っちまったのか?」
坂倉準三がシャルロット・ペリアンと一緒にやってきて、狭い座席になんとかもぐりこんだ。
「あら、シロー、今日はあのピアノの上手なお嬢さんは一緒じゃないのね?」
シャルロットが紫郎の目をのぞきこんで言った。
「おい、おまえは女の扱いがうまいから、軽い気持ちで付き合っているんだろうけどさ、お智恵さんに惚れている男は多いんだぞ。ほら、何といったかな、お智恵さんが通っていたコンセルバトワールの先輩で、作曲を勉強したっていう……」
坂倉が腕を組み、天井を見上げながら思案していると、
「高浜虚子の息子って人だろう?」
と紫郎が即答した。
「そう、それそれ。あいつ以外にも彼女を狙っている男は多いんだ。つまりシロー、我らが女神、原智恵子嬢を君が奪えば、多くの野郎どもの怨みを買うことになる。男の嫉妬は怖いぞ。いひひひ……」
坂倉が笑うと、シャルロットも「いやあね」と言いながら釣られて笑いだした。
「彼女は朝からピアノのレッスンさ。アルフレッド・コルトーの個人教授を受けているんだ。それに僕らはそんな関係じゃないよ」
紫郎はことさら平静を装って言った。
「シロー、例のフジコちゃんとお智恵さん、どっちを選ぶんだい?」
背の高い白人に肩車された井上が、天井に頭をぶつけそうになりながら陽気に叫んだ。右手に箸、左手にビール瓶を持った城戸と丸山が瓶をカウベルのように打ち鳴らし、井上の後ろで「フジコ、チエコ、フジコ、チエコ」と呪文のように繰り返している。
富士子の名を聞いて、紫郎はさっきゲルダから耳打ちされた話を思い出した。彼女は一昨日、メーデーのデモを撮影する日本人らしき長身の若い女性を目撃したという。話しかける前に人ごみに紛れて見失ってしまったが、紫郎から聞いていたフジコという女性に間違いない……ゲルダはそう断言した。ただし、髪の毛は彼女と同じぐらい短かったという。
「ところでシャルル、鮫島さんの具合はどうなんだい?」
紫郎は城戸たちの呪文を振り払うように話題を変え、シャルル・デュソトワールに訊いた。彼は2メートルの巨体を小さな席に押し込んで、箸を器用に使ってちまちまと八宝菜をつまんでいた。
「まだ肩の調子は良くないはずですが、あちこち出歩いて1人で何かを調べ回っていますよ。最近めっきり口数が少なくなりましたし、私が手伝いますと申し出ても聞いてくれないのです。信頼していた金田さんに裏切られ、誰も信用できなくなったのでしょうか」
「シャルル、君には全幅の信頼を寄せていると思うよ。まあ、金田さんの件には驚いたけどね」
紫郎はため息をついた。アメリカン・ホスピタルの集中治療室で意識を取り戻した鮫島は、金田が襲撃犯と話しているのを聞いた、恐らく金田は内通者だったのだ……と証言した。しかし、その金田は撃たれて即死している。口封じのためだろうと誰もが容易に推理できた。そうでなければ辻褄が合わなかった。
鮫島は、自分の肩を撃ったのはかつてポン・ヌフ橋の下でたたきのめしたファシストの1人だと断言した。彼が話した背格好や人相から推して、あのガマガエルに違いないと紫郎は思った。しかし、自分の腹を撃ったもう1人の正体は分からない、街のチンピラではなさそうだった……と話したきり、鮫島は口をつぐんでしまった。
「さて、腹ごしらえも済んだし、そろそろ出かけようか。みんなはどうする?」
遠くから教会の鐘の音が聞こえてきたのを合図に、紫郎が言った。
「ごめん、ビールでいい気分になっちゃった。僕はもう少しこの店にいるよ」
太郎が両手を合わせて拝むようなポーズを取ると、坂倉や井上たちも同調した。彼らとは夜にオペラ座前広場で落ち合うことにして、紫郎とキャパ、ゲルダ、デュソトワールの4人は2台のオートバイに分乗してレピュブリック広場に向かった。大規模なデモが始まる時間だった。
紫郎はエッフェル塔の近くで修理工場を営んでいるモーリス・アロンの友人、テオから中古のモトベカンを買っていた。テオは使い物にならなくなった車やバイクをタダ同然で仕入れ、何とか走れるくらいに修理して格安で売っているのだ。紫郎のバイクを見て興味を持ったキャパも、同じ型のモトベカンをテオから買ったばかりだった。