小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード5 パリーエッフェル塔 村井邦彦・吉田俊宏 作

『モンパルナス1934』エピソード5

 村井邦彦と吉田俊宏による小説『モンパルナス1934〜キャンティ前史〜』エピソード5では、川添紫郎(浩史)が特高警察らしき背広男から逃げるため、パリの街中でカーチェイスを繰り広げる。果たして男は何者なのか?(編集部)

※メイン写真:1900年にできたパリ・リヨン駅のレストラン。1963年に現在の「ル・トラン・ブルー」に改称された。

『モンパルナス1934』特集ページ

エピソード5
パリーエッフェル塔 ♯1

 巨大なガラス屋根に覆われたリヨン駅は思いのほか薄暗かった。「あの駅はほこりと鉄の匂いがする」と誰かが言っていたが、煤けたガラスを支えている鋼鉄の骨組みを見上げて、確かにそうだなと紫郎は思った。
 改札の向こうにいるピンと背筋の伸びた東洋人は、やはりあの時の背広男に違いない。黒縁の眼鏡をかけた男と話し込んでいて、まだこちらには気づいていないようだ。紫郎は階段を上った先にある「ビュッフェ・ド・ラ・ガール・リヨン」の看板に目を留めた。
「よし、あの店に入ろう」
 紫郎はネオ・バロック様式の絢爛たる内装に圧倒された。天井や壁には風景画が何十枚も飾られている。おいおい、何が「リヨン駅食堂」だ。まるでベルサイユ宮殿かルーヴル美術館じゃないか。
 バーのカウンターに座った紫郎は「アン・ドゥミ」と注文した。生ビールを頼む時はこう言えばいい、とマルセルに教わったばかりだった。
「アルザスのビールでよろしいですか」と痩せた中年のバルマンが訊いた。
「もちろん。アルザス産は大麦も水も世界一だと聞きました」と紫郎が応えると、バルマンは嬉しそうにうなずいて「ホップも世界一です」と言って笑った。
 ビールと引き換えに代金と多めのチップを払った紫郎は、口の周りを泡まみれにして「ああ、うまい」とうなり、彼の目を見て「フランスはアルザスをヒトラーに渡すわけにはいきませんね」と言った。
「あなたは我が国の事情に通じていらっしゃるようですね。私はアルザスで生まれました。アルザス人はフランス派ばかりと思われているかもしれませんが、実はドイツ派も少なくありません。私はフランス語もドイツ語も話しますし、どちらの国にシンパシーを感じるかと言われると答えるのは難しい。しかし、あなたの言う通り、ヒトラーに支配されるようなことがあったら一大事です」とバルマンはきっぱりと言った。
 その時、背広の男が入口でメートル・ドテルと話しているのが見えて、紫郎は顔色を変えた。さっき話し込んでいた黒縁眼鏡はいない。男は1人で入ってきたようだ。
「ムッシュー、僕は日本から来たシローといいます。あなたに頼みがあります。明日、必ず取りにきますから、これを一晩だけ預かってもらえませんか」とトランクを指さした。
「シローさん、もしや、あの方に追われているのですか」とバルマンが入口をちらりと見て言った。
「あなたは非常に勘がいい。さすがアルザス人だ」
「私はエルメ。アルベール・エルメ。あなたの後ろの廊下の先に扉が2つあります。左の扉から厨房に入ってください。そのまま真っすぐ進めば裏口に出られます。日本の記者だと名乗ればいいでしょう。3日ほど前、日本の何とかという新聞社の特派員がカメラマンを連れて取材に訪れました。シェフやギャルソンたちは追加取材だろうと思うはずです。いいですね、シローさん。左側の扉ですよ。成功を祈ります」
 シローはエルメに礼を言い、小さなリュックから取り出した手帳を左手に、ペンを右手に持って、小走りに厨房へと向かった。
「ボンジュール。先日は相棒がお世話になりました。日本のジャーナリストです。少し追加取材がありまして。お騒がせして申し訳ありません。いやいや、そのまま働いていてください。すぐに済みます」
 紫郎は忙しく働く男たちの一人ひとりに「ボンジュール」と声をかけながら、堂々と厨房の真ん中を歩いた。誰も気に留める者はいなかった。
 まだ若そうなギャルソンが料理を手にして、紫郎の脇を風のように通り過ぎていった。食欲をそそる香りを残して。あれはオニオングラタンだと紫郎は思った。
 ギャルソンが厨房を出ようとした瞬間、前の扉が勢いよく開いた。背広の男だ。出会い頭に若いギャルソンと衝突しかけたのだが、男は素早く立ち止まって左にかわした。ギャルソンも男をよけようと不器用に動いたから、またぶつかりそうになり、互いに右へ、左へ……を繰り返すうち、バランスを崩したギャルソンの手から皿が滑り落ちて大きな音を立てた。厨房の全員が一斉に2人を見た。男は右側の扉から入ろうとしたらしい。あれは厨房からの出口だったのだ。
「あちちち。ごめんなさい。大丈夫ですか、怪我はありませんか?」
 男の声を初めて聞いた。端正なフランス語だ。男はよろけて倒れそうになったギャルソンを抱きかかえて守る代わりに、オニオングラタンを盛大に浴びていた。駆け寄ったシェフやパティシエたちは「この男はあのジャーナリストの同僚」と思い込んでいるだろう。三十六計逃げるに如かず。紫郎が急いで裏口のドアに手をかけた時、後ろから鋭い声が聞こえた。
「か、川添君、待ちたまえ」
 紫郎の身体に電流が走った。あの男は名前を知っている。しかし、待てよ……。居丈高な特高が「川添君」などと呼ぶだろうか。「オイ、コラ、カワゾエ」が相場だろう。いや、考えている暇はない。捕まったら最後だ。見ていろ、また振り切ってやるまでだ。ふふふ。ピンチなのに、わくわくしている自分に気づいて、紫郎は何だか可笑しくなった。

 リヨン駅を飛び出して、しばらく走った先に1台だけ小型のタクシーが停まっていた。紫郎はドアを開けてシートに倒れ込んだ。
「追われているんだ。どこでもいい。突っ走ってくれ」
 この車は明らかに違法な白タクだと分かったが、構っている暇はない。
「追われているだって?」
「ああ」
「女か?」
「いや」
「警察か?」
「たぶんね」
「はははっ、上等だ。相手はメルセデス・ベンツの新型だな。あいつは楽に150キロ以上出るぞ」
 30歳ぐらいに見える鼻の高い白人の運転手がバックミラーを見ながら言った。
「えっ?」
 紫郎は驚いて後ろを振り向いた。背広の上着を脱いでYシャツ姿になった男がピカピカの新車に乗り込もうとしている。ハンドルを握っているのは、さっきの眼鏡の中年男だ。どうやら背広男の運転手らしい。
「頼む、飛ばしてくれ」
「よしきた。こいつは面白くなってきたぞ。ルノーの底力を見せやる」
 運転手がアクセルペダルを全力で踏みつけると、ルノーのエンジンはゴホゴホと咳き込み、一瞬ためらうような素振りを見せたが、早くしろと後ろから巨人に蹴り飛ばされたかのように、悲鳴を上げて急発進した。紫郎は背中が座席に張りつくのを感じた。
「あ、危ない」
 目の前にトラックが迫り、紫郎が思わず叫んだ。
「ひゃっほー」
 運転手が右に急ハンドルを切ると、タイヤが甲高い音をたて、すれすれのところでトラックをかわした。ルノーはすぐに体勢を立て直し、猛犬のような唸り声を上げて広い通りを突っ走った。
「おいおい、さすがに飛ばしすぎじゃないのか」
「大丈夫だ。今は神様より、おれを信じろ」
 ベンツも後ろについてくる。
「ほお、やっぱり速いぞ、あのベンツは。それにあの運転手の腕もなかなかのものだ。しかし、ルノーのタクシーがドイツ車に負けるわけにはいかないんだよ。何といってもマルヌのタクシーだからな」
「マルヌのタクシー?」
「20年前の世界大戦の話さ。ドイツ軍がマルヌ川の辺りまで迫ってきた。それでパリのタクシーが集められたんだ。600台だったかな。1台に5人ずつ乗せて、夜中に2往復して、50キロ離れたマルヌの前線まで6000人の兵隊を送り込んだ。それでドイツ軍を追い払ったんだ。そのタクシーの大半がルノーだったわけさ。マルヌのタクシーはフランスの誇りなんだよ」
 前方に見えていた金の像を頂く塔が、見る見るうちに大きくなる。ルノーが塔の脇を猛然と走り抜ける瞬間、鳩の群れがバタバタと飛び去った。
「さっきの塔の辺りがバスティーユ広場。監獄があった場所さ。フランス革命はあそこで始まったんだよ。さあ、おれたちの革命はこれからだ。ベンツのやつ、本当に速いぞ。直線では不利だな」
 そう叫んだ瞬間、運転手はプラタナスの並木道から急ハンドルで左に曲がり、飛ぶように橋を渡った。
「右を見てみろ」
「ああ、ノートルダム大聖堂だね」
「あっちはシテ島、こっちはサン=ルイ島だ」
「つまり、ここはセーヌ川」
「もちろん。これからセーヌ左岸に入るぞ」
 運転手が右に急ハンドルを切ると、紫郎は体ごと左に吹っ飛び、窓ガラスに頭を打ちつけた。

セーヌ左岸から望むシテ島(中央)とサン=ルイ島(右)。シテ島にあるノートルダム大聖堂の背面が見える。

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