小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード8 富士子とゲルダ 1936-1937 村井邦彦・吉田俊宏 作

『モンパルナス1934』エピソード8

1936年11月7日午前11時

「威彦さん、重光さん、お久しぶりです。長旅でお疲れでしょう」
 紫郎はシテ・ユニヴェルシテール(パリ国際大学都市)の日本館で従兄の小島威彦と深尾重光を出迎えた。小島は文部省精神文化研究所の助手を務めている。2人はヨーロッパの植民地になっているアフリカ諸国を視察した後、マルセイユに入港した。しばらくパリに滞在し、年が明けたらドイツやイタリア、イギリスなどヨーロッパ諸国を見て回るつもりだという。
「僕が友達と一緒に住んでいた家を2人のために空けてあります。すぐ近くですから歩いていきましょう」
「悪いな、紫郎君。友達まで追い出してしまって」
 紫郎の親代わりになってくれた深尾隆太郎の長男、重光が言った。
「いやいや、心配は無用です。彼はリュクサンブール公園の隣に立派なアパルトマンを見つけて住んでいますよ。僕もモンパルナス墓地の隣に引っ越したんです」
 紫郎はつい最近まで住んでいたモンスーリ公園近くのアトリエ付き住宅に従兄2人を案内した。
「お邪魔しています。シローさんの友達の原智恵子と申します」
 エプロン姿の智恵子が出迎えた。くっきりとした富士額と愛くるしい大きな目は十分に美人の要件を満たしているが、彼女の魅力は愛嬌たっぷりの笑顔と姉御肌のさっぱりした性格にあるというのが衆目の一致するところだった。
「お疲れでしょうから、すき焼きで滋養をつけてくださいね」
「ほお、すき焼きか」
「牛肉なんて久しぶりだよ。紫郎君は幸せ者だな」
 ソファに腰かけた威彦と重光が口々に言った。
「いつもこんなご馳走を作ってあげているわけじゃありませんよ。今日は特別サービスです。シローも少し手伝ってね」
「はい、はい」
「なんだ、もういっぱしの夫婦みたいじゃないか」
 威彦がからかうと、智恵子は「えーっ、私みたいな女にシローの奥さんが務まるかしら」と本気で照れて、陽気にはしゃいだ。
「うん、うまい。こんなうまいすき焼きは初めてだ」
 重光が感嘆の声を上げた。
「あら、ありがとうございます。すき焼きといえば、日本では霜降りのロースと相場が決まっているでしょう? でも、必ずしも霜降りが一番というわけでもないのね。フランスの肉は脂身が少ない代わりに、旨味がすごく強いの。だから美味しいんだわ。私、神戸育ちだから牛肉には詳しいのよ」
「ちゃんと醤油までそろえているんだな」
 台所をのぞいていた威彦が醤油の一升瓶を手に取って、しげしげと眺めている。
「ああ、それですか。苦労して手に入れたんですよ。醤油ってフランスの料理にも合うんです。だからマルセイユの波止場に日本船が着く日になると、フランスのあちこちから醤油欲しさに料理人が集まってくるらしいわ。私のアパルトマンにもう1本あるから、その瓶はここに置いていきます」
「原智恵子さんといえば、将来を嘱望されているピアニストだろう。こんなに家庭的な女性だとは思わなかったなあ」
 重光が智恵子をまじまじと見つめて言った。
 食事を終えると、小島が「ル・ドームというカフェで毎日新聞の城戸と待ち合わせているんだ。案内してくれないか」と言った。2人は東大の同期なのだ。坂倉準三も東大で1年先輩に当たるのだが、小島は「全く記憶にない」と首を振った。荷物の整理をするという重光を残し、小島、紫郎、智恵子の3人はモンパルナスに向かった。
 街路樹のマロニエやプラタナスはほとんど葉を落とし、赤や黄色に染まった無数の落ち葉が一足ごとにサクサクと音を立てる。そのリズムが心地よかった。
「なあ、紫郎君。ついに日独防共協定が成立しそうだね。私は来年、ドイツに行ってナチスの実態をこの目で見てこようと思っているんだけど、どうかな? 君の意見を聞きたいね」
 威彦は時折ジャンプして、赤く染まった葉を低い枝からむしり取っている。
「防共協定とはつまり反ソビエト、反コミンテルンですよね。それはいいとして、協定を結ぶ相手が悪すぎます。ナチスですからね。まあ、そんなドイツの現状を肌で感じてみたいという気持ちは僕にもありますよ。威彦さんの土産話が楽しみだな」
 紫郎は威彦より高く跳び上がって、黄色に染まった葉っぱを取ってみせた。
「ところで、スペインで内戦が始まっただろう。君はどう考えている?」
 3人の左手にはモンパルナス墓地が広がっている。墓地を抜けて吹きつけてくる風はひんやりとしているが、身が引き締まるような感じがして、紫郎はこの道を歩くのが好きだった。
「反乱を起こしたファシストのフランコをドイツやイタリアが後押ししていますね。一方で人民戦線政府をバックアップしているのはソ連です。多くの知識人が『反ファシズム』を叫んで、義勇兵として続々とスペインに乗り込んでいますが、彼らはいったい何のために戦っているのでしょう。僕にはだんだん分からなくなってきましたよ。もちろん反ファシズムのため、自由を守るためかもしれませんが、実際はソ連のコミンテルンのために戦っている……。そんな図式になってしまっているんじゃないかと思うんです」
 モンパルナス通りとラスパイユ通りの交差点が見えてきた。
「威彦さん、この四つ角がモンパルナスの中心です。あれがメトロのヴァヴァン駅。こっちがル・ドーム。ここさえ覚えておけば絶対に迷子にはならない。待ち合わせ場所もこのル・ドームか、その先のラ・クーポールにしておけば間違いありませんよ」

1936年11月7日午後3時

 ル・ドームの奥の席で待っていた城戸は、小島の姿を見つけるなり相好を崩した。
「いやあ、小島がシローの従兄とはねえ。世の中は狭いものだなあ」
「ははは、全くだな。ところで城戸、君に相談があるんだ。日独防共協定の調印が確実になって、フランスもなんだか殺気立っているだろう? こんな時こそ、日本人とフランス人が本音で語り合う場が必要だと思うんだよ。シンポジウムか座談会のような場をつくれないかな。君ならアランやアンドレ・マルローといった人たちを呼べるだろう?」
 紫郎と智恵子も横から「それはいい」「素晴らしいアイデアね」と援軍を出した。
「日仏座談会か。悪くないね。しかし、仮にフランスの有力な知識人を引っ張り出せたとして、日本サイドは誰が出席するんだ?」
 城戸は根本的な問題を指摘した。
「城戸、君は出てくれるよな。私も出よう。ル・コルビュジエの事務所で建築をやっている坂倉さんにも出てもらいたいね。丸山君という東大の後輩も大変な秀才らしいじゃないか。みんな紫郎君の仲間なんだよな? そうだ、紫郎君、君も出ればいい」
 小島が真顔で言った。
「えっ、インテリの威彦さんなら分かるけど、僕が座談会に? アランやマルローのような有名人が相手なんですよね。ちょっと無理がありませんか」
「いや、やってやれないことはない。きっとできるさ」
 小島は真顔を崩さなかった。絵に描いたような正統派の二枚目だからか、小島がそう断言すると、本当にやれそうな気がしてくるから不思議だった。
「そうだ、座談会に先立って、日本映画の上映会をやりませんか。マルローのような知識人に日本の映画を見てもらうんですよ」
 紫郎はカフェ・ノワールを一口飲んで続けた。
「実は先日、日本に帰って新作映画を1本買い付けてきたんです」
「えっ、なんだって?」
 城戸と小島が同時に声を上げ、そろって怪訝な顔をした。
「会社を始めたんですよ」
 紫郎が言った。
「か、会社を?」
「始めただって?」
 淡々と述べる紫郎の横で、いたずらの共犯者のような顔をして智恵子がにこにこ笑っている。小島と城戸はあっけにとられていた。
 紫郎は2人に名刺を差し出した。「フィルム・エリオス 代表 川添紫郎」と印字されている。住所はパリのシャンゼリゼ通りだ。
「日本の映画をフランスに紹介し、フランスの映画を日本に紹介する。それが仕事です」
「この住所は満鉄の隣か、隣の隣あたりだな。いずれにしても一等地だ」
 城戸が新聞記者らしく鋭く指摘した。
「そうですね。それでフィルム・エリオス社が取り扱う映画の第一弾として、熊谷久虎監督の『情熱の詩人 啄木』を持ってきたわけです」
「そうか、熊谷さんは日活だよな。君の実の親父さん、後藤猛太郎氏は日活の初代社長だったから……。まだつながりは残っているってことだな?」
 小島が訊いた。
「さすが、威彦さん。まあ、そんなところですよ」
「しかし、いくら後藤猛太郎の子息でも、日活だって商売だからなあ。そんな資金、どこから調達したんだ? ひょっとして満鉄か?」
 城戸がまた新聞記者らしく急所を突いてきた。いや、彼は記者の中でもとびきり優秀なのだろう。
「まあ、そのあたりは企業秘密ということで……。とにかく、この映画は代用教員として郷里の村にやってきた石川啄木が主人公なんですよ。啄木は自由で進歩的な教育を村の学校に持ち込もうとする。しかし、古い因習にとらわれている地元の有力者たちの反感を買って追放されるんだ。フランスの知識人は関心を持つと思うんだけどな。啄木は歌人だし、特にフランスの詩人なら共感するはずですよ」

日本人として初めてショパン国際ピアノコンクールに出場した原智恵子(1937年、ワルシャワ)。2021年には同コンクールで反田恭平が2位になった(写真提供=川添象郎)

1937年5月2日午後7時

「えー、日仏座談会、無事に終了いたしました。いやあ、正直に申しまして実現できるとは思いませんでしたが、皆さまのおかげで何とかなりました。ありがとうございます。心より御礼申し上げます。えー、今夜は日仏座談会の成功、2月に開いた『情熱の詩人 啄木』上映会の成功、それから原智恵子嬢のショパン国際ピアノコンクール優勝を祝しまして、盛大なる会にしたいと思っております」
 ラ・クーポールの一角におなじみの面々が集まり、城戸が乾杯の音頭を取った。
「ちょ、ちょっと待ってくださ~い」
 智恵子が学校の授業のように手を挙げ、起立して発言した。
「ショパンコンクールの話ですが、優勝ではないんです。聴衆賞です、聴衆賞」
 彼女は同じ単語を2度繰り返して着席した。
「いいえ、皆さん。智恵子さんの受賞は優勝に匹敵する賞ですのよ。この際、私から説明させていただけませんでしょうか」
 智恵子の計らいで留学先のブリュッセルからパリに移り、紫郎たちの仲間に加わった17歳のバイオリニスト、諏訪根自子が立ち上がって発言した。
 他のテーブルにいるフランス人の客まで一斉に彼女に視線を送った。智恵子も美人だが、根自子は誰もが振り向くような洋風の美少女だった。いや、日本人の目から見れば西洋人のようだが、フランス人にはエキゾチックなアジアの美女と映っているのだろう。彼女はパリに来てめきめきとバイオリンの腕を上げているから、その美貌と相まって世界的なスターになるかもしれないと期待されていた。
「ワルシャワのショパンコンクールに出場する前に、智恵子さんはモンマルトルにあるルービンシュタイン先生のお宅を訪ねて、ショパンの『マズルカ』の極意を教わったそうです。マズルカはポーランドの魂と言ってもいいでしょう。智恵子さんのピアノはコンクール会場の聴衆を魅了しました。ところが審査結果は15位だったのです」
 根自子は活動弁士のような調子をつけて、コンクールの経緯をドラマチックに語った。日本語など分かるはずもない他のテーブルのフランス人たちも彼女の語りに耳を傾けている。いつもは騒がしいラ・クーポールがコンサート会場のように静まり返っていた。
「結果を聞いて、聴衆が騒ぎだしました。15位なんてありえない、と。智恵子さんは聴衆の魂を揺さぶるようなピアノを弾きました。演奏のテクニックの良しあしとか、そんな次元を超越した本物の深い感動を与えたのです。それなのに15位という不当な順位……。聴衆の不満は収まりませんでした。そこで会場にいた大富豪が機転をきかせ、智恵子さんに『聴衆賞』を贈ろうと提案したのでした」
 坂倉が真っ先に拍手すると、みんながそれに続き、やがて店内は「ブラボー」の嵐となった。根自子に促されたて再び立ち上がった智恵子は、アンコールを受けたピアニストのように何度もお辞儀をして、手を振って歓声に応えた。
「えー、皆さん。こうして日本のピアニストが国際的な舞台で認められるのは大変うれしいことでございますね。昨日の日仏座談会ではいろんな議論が出ましたが、ここは出席者の代表として小島さんにお尋ねしましょう。最も印象に残った発言は何でしょうか」
 城戸が名司会者ぶりを発揮し、座を仕切ってみせた。
「アンドレ・マルローが直前になって出席できなくなったのは残念でしたが、ルイ・アラゴンやポール・ニザンをはじめ、当代一流の知識人が出席して、真摯に発言してくれたのは大きな収穫でした。我々としては現在の日本やアジアの状況について彼らがどう考えているのか、もっと掘り下げて訊きたかったのですが……」
 小島はそこで一息つき、ビールを喉に流し込んで続けた。
「アラゴンをはじめ、出席者の大半が強調したのは、自分たちは諸君がヨーロッパを勉強してきたほどには日本を勉強してこなかったということでした。日本ではフランスの文学や絵画は盛んに紹介されています。哲学にしてもデカルトやモンテーニュ、パスカルの時代から、ベルクソンに至るまで、熱心に研究、翻訳されています。アラゴンたちはこう言いました。それに引き換え、自分たちは日本を全く知らない、勉強もしてない。だから君たちに教わりたい、日本の古典のフランス語版を出してほしい、と。それに日本の作家の翻訳や、日本映画の紹介にも力を入れてほしい……と。彼らの本音に触れて、我々のなすべきことが見えてきました。以上です」
 小島が演説を終えると、また拍手が巻き起こった。「我々のなすべきこと」のくだりで小島が自分に視線を送ったのに、紫郎は気づいていた。日本文化の紹介か。自分の進むべき道はこれなのだと彼は再認識した。「命をかけて、自分の進むべき道を行く」。そう宣言した富士子の顔がふと浮かんだ。髪を短くした富士子の顔が……。
「どうしたの、シロー。怖い目をして」
 智恵子が顔をのぞきこんで言った。
「い、いや、何でもないよ。ネジコちゃんの言った通り、ショパンコンクールの聴衆賞は優勝と同じくらいの価値があるね。改めておめでとう! 乾杯!」

義勇兵としてスペイン内戦の共和国軍(反ファシズム、反フランコ)に参加するように呼びかけるポスター。中央の女性はマリアンヌ(自由の女神)

1937年7月14日午後8時

 革命記念日の夜、紫郎はキャパとゲルダに呼び出された。内戦の嵐が吹き荒れるスペイン各地を飛び回った2人は報道写真家として名を上げ、特にキャパは世界的な名声を得つつあった。
「もしもし、シロー、僕だよ。モンマルトルのサクレ・クール寺院に来ているんだ。ゲルダもいる。シローに伝えておきたい話があってね。これから来られるかい?」
 断る理由はなかった。彼のフランス語も板についてきて、もう紫郎たち日本人の話すフランス語と変わらなくなっていた。紫郎はモトベカンを駆って、モンマルトルの丘を登った。智恵子を誘おうかと思ったが、キャパは「1人で来て」と言った。
 キャパとゲルダはサクレ・クール寺院の前に並んで立ち、夕日に染まっていくパリの街を眺めていた。
「やあ、ちょっと久しぶりだね。2人とも大活躍だな。以前は君たちの写真が載った新聞や雑誌はすべて買っていたんだけど、とても追いつかなくなったよ」
 紫郎は後ろから声をかけた。振り向いたキャパとゲルダの顔は逆光になっているが、なんだか浮かない顔をしている。
「どうしたんだい。ケンカでもしたのか?」
「シロー、彼女は……フジコという名前だったよね。あの背の高い女の子。素晴らしい写真を何枚も撮っていた」
 キャパがポツリ、ポツリと言った。
「ああ、富士子さんのことか。彼女は自分の進むべき道を見つけたと話してくれた。僕は驚かなかったよ。写真に命をかけているキャパとゲルダを知っていたからね。彼女のクレジットのある写真を雑誌や新聞で何度か見たよ。どうやらスペインに行ったようだね」
「ええ、マドリードで会ったのよ。お酒を飲みながら3時間ぐらい話したかな。彼女、シローのこと好きだったのね。とても。あなたにはそんな素振りは見せなかったかもしれないけれど、女の私には分かるの。痛いほど。彼女は不器用な人だったのよ。どこか私に似ているところがあった。だから友達になりたかったのに、きっと親友になれたのに……」
 そこまで話したところで、ゲルダの目から大粒の涙がこぼれた。キャパも泣き出した。2人とも涙が止まらなかった。何が起きたのか、紫郎はすぐに悟った。不思議と涙は出てこなかった。戦場で流れ弾に当たったのだという。「命をかけて」という富士子の言葉が脳裏を駆け巡った。紫郎はその夜、ついに朝まで眠れなかった。

1937年7月27日午後1時

 ゲルダの訃報がパリに届いたのは、それから13日後のことだった。スペインの戦地で、彼女もまた若い命を散らした。26日早朝に息を引き取ったという。キャパは部屋に閉じこもって三日三晩泣き通した。紫郎には親友にかける言葉が見つからなかった。(つづく)

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