小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード8 富士子とゲルダ 1936-1937 村井邦彦・吉田俊宏 作

『モンパルナス1934』エピソード8

1936年5月3日午後2時

 紫郎たちがレピュブリック広場に着くと、すでに何千という学生や労働者が集まっていた。互いに抱き合い、口々に「ファシストを追い詰めろ」と叫んでいる。
 紫郎は広場の中央にある台座の上に立つ女性像を見上げた。マリアンヌだ。マロニエの花々がむせかえるような甘い香りを放っている。
 フランス人にとっては見慣れた「自由の女神」かもしれないが、紫郎にとってマリアンヌは富士子の化身だった。井上たちがはやし立てたように、最近彼の前に現れた若きピアニスト、原智恵子に強く魅かれ始めているのは間違いない。しかし、富士子を忘れたわけではなかった。彼女はきっと現れる。デモを撮影しにくるに違いない。紫郎はそう確信していた。
 キャパとゲルダは「撮影に行ってくる」と言い残し、マリアンヌ像の裏側に回っていった。
「おい、あいつ知っているぞ。日本人だ」
 デモ隊の中にいる子どものような顔をした若いフランス人が紫郎を指さした。
「日本人だって?」
「ドイツ野郎の仲間だ」
「ファシストだ」
 同じような年ごろの男たちが次々と集まり、紫郎を取り囲んだ。日本といえばファシズムという短絡的な連想がパリの知識人にまで浸透し始めたのは、この年の2月に起きた二・二六事件の影響も大きかった。パリのキヨスクで売っている新聞の1面に「ジャポン、ドラゴン・ノワール(黒龍会)のクーデター」の大見出しが躍っているのを見て、腰を抜かしそうになったのを紫郎は思い出した。
「おい、日本野郎、どのツラさげてここに来ているんだ。今から何が始まるのか分かっているのか。我らが人民戦線の勝利は目前だ。ファシストの出る幕じゃないぜ」
 ニキビだらけの若者が啖呵を切った。
「君たち、およしなさい。この人はファシズムに反対している。フランスにもファシストはたくさんいるでしょう。日本にも反ファシズムの志士はたくさんいるのです。それが分かりませんか」
 紫郎を取り囲む輪にデュソトワールの巨体が割って入った。
「あいつはソルボンヌのラグビー選手だ」
「10人がかりでもかなわないぞ」
「黒人だがフランス代表に推す声もあるらしい」
「構うもんか」
「30人もいれば何とかなるさ」
「そうだ、そうだ」
「黒人をのさばらせるな」
「黒人のくせに偉そうな口をききやがって」
 いったん広がった輪がまた狭まってきた。何十人もの若者たちが紫郎とデュソトワールを幾重にも取り囲み、にじり寄ってくる。
「やれやれ。こいつらの方がよっぽどファシストじゃないか。さて、シャルル、どうしようか。ここは正面突破かな?」
 紫郎が大男の肩に手をかけて言った。
「いえ、いけません。ここで暴れたらけが人は1人や2人ではすみませんよ」
 さすがのデュソトワールも打つ手なしといった顔をしている。
「おい、まずいぞ」
 若者たちの1人が鋭く叫んだ。紫郎とデュソトワールを囲んでいる輪の外側が急に騒がしくなった。
「なんだ、なんだ」
「あ、愛の十字架団だ」
「清らかな名前だが、あいつらの愛はファシズムへの愛だからな」
「やつら、何をするか分からないぜ」
「逃げろ」
 紫郎とデュソトワールを囲んでいた輪はあっと言う間にほどけ、代わりに薔薇と髑髏を組み合わせた不気味なマークをつけた制服姿の集団が迫ってきた。
「シローさん、私たちも逃げましょう」
「どっちに」
「とりあえず、デモ隊の方に。あの髑髏の軍団はデモ隊より危険です」
 紫郎とデュソトワールは全力で走った。マロニエ、リラ、アカシア……。様々な花の香りが複雑に入り混じっている。急に雨が降ってきた。
「シャルル、さすがに速いな」
「シローさんの足も素晴らしいですよ。私のチームのウイングになればトライを量産できます」
 マリアンヌ像の裏に回ると、ここでもデモ隊とファシストの小競り合いが始まっていた。ファシストが少し押しているようだ。雨が激しさを増してきた。雨音と怒声と花々の甘い香りが異様な不協和音を奏でている。
「ふ、富士子さん」
「えっ、どこですか?」
 紫郎はマリアンヌ像を指していた。富士子はマリアンヌ像の台座によじ登り、茶色の上着をカメラの雨よけにしながら、デモ隊とファシストの衝突を撮っていた。
「彼女、やるじゃない。やっぱり、あの人がフジコさんなのね。メーデーで見かけたのは彼女よ。同じライカを持っていた。間違いないわ」
 いつの間にか紫郎の横にゲルダが立っていた。
 2メートル以上はありそうな高い台座の上でライカを構える富士子の姿は、やはりマリアンヌの化身そのものだと紫郎は思った。
「あっ、危ない」
 ゲルダが叫ぶより先に紫郎が走り出していた。デュソトワールも続いた。ファシストが富士子を引きずり降ろそうとしている。彼女のスラックスの裾をつかんでいる男に紫郎がタックルし、よろけて落下する富士子をデュソトワールががっちりと受け止めた。
「シ、シロー、あなたなの?」
 デュソトワールの太い腕に抱えられた富士子が紫郎に顔を向けた。ゲルダの言った通り、髪を短くしている。
「ああ、久しぶり。元気そうだね。いや、ちょっと元気すぎると言った方がいいかな」
 デュソトワールが富士子を抱えたままファシストの群れをかきわけて道をつくり、紫郎が後に続いた。
 大男の腕から降りた富士子はバレリーナのように背筋を伸ばして真っすぐに立ち、デュソトワールを見上げて「どうもありがとう」と礼を言った。
「どういたしまして。お怪我はありませんか」
「ええ、大丈夫よ。助かったわ」
「私はシャルルと申します」
「富士子です。あなたはシローのお友達?」
「はい。シローさんは私の親友です。フジコさんの話を何度もしてくれました」
「おいおい、シャルル。何度もっていうのは大げさだろう」
 紫郎は赤くなって頭をかいた。
「富士子さん、髪を切ったんだね」
「えっ? ええ……。私は変わったのよ。もう日本にいたころの私じゃない……。うん、そうね。そう腹をくくるために切ったの。思い切り短く、バッサリと。やっと見つけたのよ、自分の進むべき道を。このパリで」
「自分の進むべき道?」
「カメラで真実をとらえて、世界中の人に伝えるの。ファシズムがいかに恐ろしいか。いかに非道なことが行われているか。それに今、ファシズムに反対する人たちが団結しようとしているでしょう。この姿を伝えたいの。今のリアルな現実を。1枚の写真には、多くの人々を動かす力がある。そう信じているのよ。危険があっても構わない。私はこのライカを持って、どこにだって出かけていくわ。命をかけて。ところでシロー、あなたはパリに来て何をやっているの?」
「自分の命をかけて?」
「そうね」
「映画……かな」
 また急に周囲が騒がしくなってきた。数に勝るデモ隊に押され、愛の十字架団のファシストたちが撤退を始めたようだ。先頭を走る男に、紫郎の目は釘づけになった。
「ガマだ、ガマガエルだ。シャルル、あいつだ。鮫島さんを撃ったやつだ」
 紫郎とデュソトワールは一気にダッシュしてガマを追った。
「富士子さん、どうか気をつけて。そうだ、オペラ座だ、オペラ座前広場で会おう!」
 振り返りながら紫郎は叫んだ。富士子に伝わったか自信はなかったが、今夜オペラ座前広場で選挙の投票結果が発表されるのは知っているはずだ。それにしても、やっと会えたのに、まだろくに話もしていないのに、なぜ自分はガマを追っているのだろう。いや、当然のことをしているのだと紫郎は自分に言い聞かせた。相手は鮫島を撃った憎き男じゃないか。
 ガマの後ろ姿が近づいてきた。50メートル先にバイクが数台停まっている。そこに紫郎とキャパのモトベカンもあるのだが、ガマが知るはずもない。
「シローさん、あの男、バイクに乗りましたよ」
 派手なカーチェイスをするまでもなく、シローのモトベカンは1キロほど走ったところでガマに追いついた。後部座席に乗ったデュソトワールが長い手を伸ばして一突きすると、ガマのバイクはバランスを失ってあっさりと横転し、レ・アール(中央市場)の片隅の街灯にぶつかって止まった。
「久しぶりだな。そのガマガエルのような顔と体つきは忘れないぞ。おい、ガマ、鮫島さんを撃ったのはおまえだな」
 バイクから投げ出され、路肩に倒れているガマを見下ろして、紫郎は言った。
「知るか、そんなやつ」
 ガマは額の擦り傷を手の甲でぬぐい、吐き捨てるように応えた。
「ポン・ヌフ橋の下で、僕と会ったのは覚えているだろう?」
「忘れた」
「私が思い出させてあげましょう」
 デュソトワールがガマの左腕を取り、ひじの関節を逆に伸ばした。ガマが悲鳴を上げる。
「思い出しましたか?」
「忘れたって言ってるだろう」
「もう少し力を入れましょうか。ただし、骨は折れます。よろしいですか」
「分かった、分かった、思い出したよ」
 デュソトワールが力を緩めて「さあ、話してください。すべてを。洗いざらい」と珍しく怒気を含んだ声で鋭く言った。
「こいつ、狂暴なやつだなあ」
 ガマが悪態をつくと、デュソトワールはまた力を込めた。ガマが絶叫した。
「分かった、もうやめてくれ。話す、話すから」
「鮫島さんを撃ったのはおまえだな」
 紫郎が問い詰める。
「撃ったといっても、肩だぞ。殺さないように撃ったんだ。それに、おれは命令されただけなんだよ」
「命令? 誰の命令ですか」
 デュソトワールが言って、また力を入れた。
「い、痛ててて。おい、やめろよ。はっきりしたことは分からねえんだよ。ドイツ人ということしか知らねえんだ」
「ド、ドイツ人だって? なぜドイツ人がフランス人のおまえに命令するんだ。鮫島さんを撃てと言われたというのか?」
 紫郎はわけの分からぬ話にいら立った。また雨足が強くなってきた。
「本当だから仕方ねえだろう。サメジマといったっけな、あの日本人の名前は。そのサメジマのボスの何とかという男が、日本とイギリスを組ませようと画策しているらしくてな。ドイツとしちゃあ、それが気に食わなかったらしい。日本とイギリスが手を組むなんて悪夢なんだとさ。ソ連がどうのこうのとも言っていたが、それ以上詳しい話は知らねえな」
 ガマは口から出まかせにデタラメを言っているわけでもなさそうだ。むしろ、あり得る話だと紫郎は思った。
「では、なぜ、ボスではなく、鮫島さんを襲ったのですか」
 デュソトワールが訊いた。彼も相当にいら立っていた。
「そんなこと、おれが知るわけがないだろう。そう命じられただけだ。あのドイツ野郎はサメジマって男の運転手を手なずけていたんだよ」
「金田さんのことだな?」
 紫郎はガマの襟をつかんで問いただした。
「カネダ? ああ、そんな名前だったな。ドイツ野郎はドイツと組んだ方が日本の国益になるとカネダに吹き込んだんだ。ボスを暗殺したりすれば一大事になるから、部下のサメジマをターゲットにすればいいと提案したのは、その運転手らしいぜ」
「金田さんは撃たれて即死したんだ。おまえが撃ったのか」
 紫郎はガマの襟をつかんだまま叫んだ。
「大きな声を出さなくても聞こえてるよ。ドイツ野郎はボスに脅迫状を送ったと言っていた。部下に大怪我を負わせれば、脅迫状は本物だというメッセージになる。そうだろう? おれの仕事はそこまでのはずだった。本当だ。運転手もそのつもりだったに違いない。ところがドイツ野郎はいきなりそのカネダって男を撃ちやがったんだ。まあ、口封じのつもりだろうな。サメジマにもう一発食らわせたのもそいつだ。完全にイカれた野郎だぜ」
 坂本は脅迫状のことなど一言も言わなかった。やはり心当たりがあったのか。
「そのドイツ人の名前は? 今どこにいるのですか」
 デュソトワールが声を荒らげた。
「名前なんておれに教えるはずがないだろう。ましてや居場所なんて……。おれがただの街のチンピラだって、もう分かっているんだろう? 被害者なんだよ、おれも」
 ガマは開き直った。口封じのために金田が撃たれたのだとすれば、そのドイツ人はなぜガマも消さなかったのか。やはりガマはデタラメを言っているのか……。
「シローさん、もういいでしょう。これ以上追及しても、何も出てきませんよ」
「そうだな。解放してやろう」

演説する社会党党首、レオン・ブルム(1932年)。36年の選挙で社会党、共産党、急進社会党などの人民戦線が勝利し、ブルムを首班とした人民戦線内閣が成立する

1936年5月3日午後8時

 オペラ座前広場にはデモ隊が次々と集結していた。何千、何万という人たちが肩を組んで「インターナショナル」を歌い、口々に「ファシストを追い詰めろ」と叫んでいる。今や人民戦線はファシズムに対抗する希望の星になっているのだ。雨はすっかり上がっている。
「ファシズムも共産主義も同じだよ」。モーリス・アロンの言葉が紫郎の頭をよぎった。同時に、希望に燃える富士子の上気した顔も浮かんだのだが、なぜかすぐに消えてしまった。果たしてソ連のコミンテルン主導の人民戦線に希望を託していいのだろうか。紫郎は「インターナショナル」の大合唱にどこか違和感を覚えていた。
「おーい、こっち、こっち」
 坂倉が陽気に手を振っている。シャルロット、井上、太郎、丸山、城戸もそろっていた。
「そろそろ選挙結果が発表されるよ。あそこのスクリーンに映写されるんだってさ。なかなか凝った演出だよね。日本じゃ考えられない」
 井上が楽しそうに言った。20メートルほど離れた街灯の下にキャパとゲルダの姿が見える。投票結果の発表を待ちわびる群衆を撮っているようだ。
 スクリーンに投票結果が映し出された瞬間、地鳴りのような歓声が巻き起こった。予想された通り、人民戦線が勝利を収めた。これで社会党の首相の誕生が確実となった。

「フランスの人民戦線はソ連の操り人形である」とするプロパガンダ・ポスター

1936年5月10日

 1週間後に発行されたグラフ雑誌『ヴュ』には、オペラ座前広場で熱狂する群衆を活写した写真がたくさん掲載された。
 紫郎はそのうちの1枚に「フジコ・ハヤシダ」のクレジットがあるのを見逃さなかった。拳を突き上げて叫んでいる何人かのフランス人にピントを合わせているが、その向こうに腕組みをして困ったような顔をしている紫郎とデュソトワールが写っていた。やはり富士子はオペラ座前広場に来ていたのだ。
 彼女があえてこの写真を選んで『ヴュ』誌に送ったのかは分からない。しかし、後ろに写っているのが紫郎とデュソトワールであることは認識していたはずだ。紫郎の家を訪ねてきた原智恵子が大喜びでその写真を切り抜き、いそいそとノートに貼りつけている。紫郎は写真と同じ複雑な顔をして、彼女の作業を見つめていた。

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